暑い暑い木曾路の旅の一日であった。側を通りかかった多治見の気温が38・5℃であると知り、熱中症に罹らなかったことを喜びたい。
木曾路はすべて山の中である。あるところは岨(そば)つたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いてゐた。
島崎藤村の名作
『夜明け前』の冒頭である。贄川(にえかわ)、奈良井、薮原(やぶはら)、宮ノ越、福島、上松(あげまつ)、須原、野尻、三留野(みどの)、妻籠(つまご)、馬籠(まごめ)の11宿がいわゆる、木曽街道に置かれていた。暑いなかを妻籠、馬篭と街道の宿場を歩く。現地に来てみて、なるほどこの文章に記された風景を納得することが出来た。
まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり
島崎藤村の生家あとの藤村記念館を訪れてこの初恋の詩を口ずさむ。時が移り、人情が変った今でも、懐かしい思い出がよみがえってきたのは不思議である。恵那山の威容を望んでいたら「人はいくつになっても子供の時分に食べた物の味を忘れないように、自分の生まれた土地のことを忘れないものです。たとえその土地が、どんなやまのなかでありましても。」という藤村のことばに説得力を感じた。
―今日のわが愛誦短歌
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つきつめて生死(しょうじ)に到る思ひさへ
濃淡ありて一夏(いちげ)ながしも 安永蕗子
―今日のわが駄句
・木一本に首一つかと木曽の蝉

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