今日は日中、空き時間が多かったので、映画「なごり雪」のDVDを見た。
でも全部見た訳じゃない。なにしろ映画館で3回、DVDでは10回位見ているから、印象的な場面や、どうしても見たい場面だけを見た。
とにかく、この映画は何回見ても難解で、最初のうちは大林監督の意図がなかなか判らなかったが、ようやく最近は判ったような気がする。
なごり雪の作者、伊勢正三氏が20代始め、この歌を作った1972年頃といえば、日本は高度成長時代の真っ只中で、経済発展の片方で破壊の時代だった。
ただ、ガムシャラに働き、目先の幸せだけを求め、物事の本質を見失った大人達を尻目に、若き伊勢正三、正やんは自分の心象風景の中で、日本の美しき心を、美しい言葉で、美しいメロディに乗せてこの歌を作った。
汽車を待つ君の横で
ぼくは時計を気にしてる
季節はずれの雪が降ってる
「東京で見る雪はこれが最後ね」と
さみしそうに君がつぶやく
なごり雪も振るときを知り
ふざけ過ぎた季節のあとで
今 春が来て君はきれいになった
去年よりずっと きれいになった
大林監督は、この詩をすべて、そのまま祐作と雪子にセリフとしてしゃべらせた。それも一本調子で…。何がすごいと言っても、これこそが、この映画の勝負どころであろう。一歩間違えれば、折角のすばらしい詩も映画そのものもドサマワリの田舎芝居以下になったであろう。
しかし、そうはならずにとても奥深い感情がこもった場面になったのは、さすが大林監督と感心さざるを得ない。
動き始めた汽車の窓に顔をつけて
君は何か言おうとしている
君の唇が「さようなら」と動くことが
こわくて下を向いてた
時が行けば幼い君も
大人になると気づかないまま
今 春が来て君はきれいになった
去年よりずっと きれいになった
人は得ることに一生懸命になる。そして、その代償として失ったものに気づかない。運良く、それに気付いた場合にも、時すでに遅く、失ったものは帰ってこない。失ったものに気がつくには、それ相当の時間が必要なのだ。
君が去ったホームに残り
落ちてはとける雪を見ていた
今 春が来て君はきれいになった
去年よりずっと きれいになった
人生は無常である。
人それぞれの生まれ方があり、生き方があり、死に方がある。そして送られ方がある。けして思い通りには行かない。
だから監督は最後に祐作と水田に言わせた。
「これからどうやって生きていけばよいのだろう?」
「とりあえず一所懸命に生きるしかないだろう」
「そうか、一所懸命か…」
祐作を見送ったホームで、心の中をしぼりだすように号泣する水田がラストシーンだ。水田と祐作が雪子と出会い、愛される祐作がそれに気付かずに自分のしたいように生き、愛する雪子は見向きもされないで、自分を愛する水田と一緒になり、それなりに生きた愛と苦悩の28年間。
水田の号泣は得ることの幸せよりも、はるかに大きい失ったものへの懺悔だろう。心のヒダというヒダまで綺麗に洗い流す無心の号泣だっただろう。
今、地球が泣いている。そして心ある大人達は泣きたいのだ。自分達の至らなさに…。
それでも、季節は巡ってくる。子供たちは育って行く。
君が去ったホームに残り
落ちてはとける雪を見ていた
今 春が来て君はきれいになった
去年よりずっと きれいになった
過ぎ去った時は戻ってこない。
春に咲く花はピュアで美しく、あまりにも可憐でまばゆい。
それはまるで戻ることのできない幼かった自分のようだ。
今を生きる若者は、これから何を得て何を失って行くのか?
50代半ばを生きる我々は、少なくとも今を一所懸命に生きて、今残るものだけは守っていかねばならない。今までに壊してきたものを知っているのだから…。
ちょっと個人的なことを言えば、この映画の冒頭で主人公の祐作が机の上で弄ぶリールはワタシの知人が貸し出したもので、薄暗い部屋の壁に掛かる数枚の絵はワタシの友人が描いたものだ。ワタシの間接的な口利きでそういうことになった。
また、映画の重要な場所である「みちこの店」の横に立っている電柱に大きく貼られた看板「山村布団店」というのも、なんだか嬉しくなってしまうのであった。(^^)

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