ワタシが通学していた頃の大分大学付属小学校は古びた木造校舎だった。
それは旧陸軍の兵舎をそのまま使っていたと言われていたように思うが、定かではない。ただ、校舎の床下からは、あたり前のように銃弾が出てきたし、ある時はまとまって木箱に入った銃が大量に出た記憶がある。運動場の裏山は射撃場跡で、掘ればいくらでも銃弾が出てきた。
「射撃場跡には寄り付くな」ときつく言われていたが、言われる程に行きたくなるのが子供である。特にワタシには、そういう兆候があった。放課後、校庭に誰もいなくなった頃、「鉄砲のタマ」掘りに良く出かけた。もちろん、校舎の床下で苦労しながら調達する子供もいたが、あたり前のことながら射撃場の山肌からは無傷の上等のタマが簡単に出て来るのだった。
そこで調達した「鉄砲んタマ」を持って近くの木工所に行くと、そのタマを芯にしたオリジナルのコマを作ってくれるのだ。ワタシが知る限り、その木工所は本来の仕事はせずにコマばっかり作っていた。殆どは、その木工所に用意された荒削りの鉄芯のコマだったから、「鉄砲んタマ」を芯に使ったコマは天下無敵の存在だった。
なにしろ、イワユル「喧嘩ゴマ」に使うのだ。そういう戦闘用のコマは「鬼ゴマ」と呼ばれ、イチジクの果実のような形だった。相手の廻したコマの真ん中を目掛けてコマを打ち付けるのだ。鉄砲んタマが相手のコマの真ん中に当たると、見事に半分に割れて飛び散るのだ。相手のコマを蹴散らして自分のコマが廻ると勝ちだが、「鉄砲んタマんコマ」は最強だった。相手のコマを割っった跡も延々と廻り続ける。鉄そのものが固いし先が鋭利だからだ。その廻るコマを人指し指と中指の間に入れ、人指し指をちょっと跳ね上げると、コマは手のひらに乗る。
鋭い鉄砲んタマが手のひらの上で廻り続けると、当然皮膚に穴が開く。だから、そうならないように手のひらの上で移動させながら廻す。上手い子供は(ワタシのように)手のひらを大きく揺らして横に向けても落ちなかった。今、思えば、鉄砲んタマは細かった。多分、6.5mmの38式機関銃や38式歩兵銃の弾だったに違いない。7.7mmは無かったと思うから。
それにしても…。昔の子供は器用だった。紐をギッチリと巻きつけたコマを投げて、紐の動きを匠に読みながら、1m先のわずか5mm程の的に当てるのだから。ただ当てるだけではない。コマはちゃんと廻っている。
すべての遊び、生活の中で子供達は研ぎ澄まされた感性を持っていた。もちろん、個人差は当然あった。現代人は便利さの追求の結果、相当鈍感になっていることだけは確かだ。
鉄砲のタマと言えば、やはり小学校の低学年の頃、鉄工所に忍び込んだことがあった。場所は現在の顕徳町あたりだったか、人が居なかったから日曜日だったと思う。高い塀を乗り越え、中に飛び降りると、ドラム缶や四角い油缶が無造作に置かれており、その中には宝が溢れていた。機関銃や機関砲の弾や薬きょうがギッシリと放り込まれていたのだ。
その情報は事前に近所の友達から聞いていた。私はポケットにイッパイそれらを積め込み、もっと奥にどんな宝があるのだろうとドキドキしながら見渡していたが、それ以上奥に行く勇気は無かった。
忍びこみ、目的のモノを得たワタシは、外に出る為の踏み台になるものを引っ張ってきて、塀の上に手を掛けて空を見上げた。塀の上に出した顔をスッと涼しい風が撫でていった。ワルガキは自分の顔が火照っていて、汗が流れていることに気づいた。
小学2年の夏休み、真っ盛り。ジリジリと照り付ける太陽を見た瞬間、クマゼミのウルサイ鳴き声が響いてきた。

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