『だまし絵の女』のついでに、かたせ梨乃+本田博太郎モノ。
『女無宿人 半身のお紺 第1話 想い涸れましょうや』
放送日:1991年1月6日 テレビ東京
監督:山本邦彦 脚本:中村勝行(原作:笹沢左保)
全13回。
ただし、博太郎さんが出演しているのは、第1話、第2話、第4話と最終回。も一つ、“ただし”。最終回をのぞいた毎回、タイトル“女無宿人 半身のお紺”と各回のサブタイトルの間に、お紺の不幸な過去から善十との出会い、善十の非道と出奔、お紺の愛と憎しみの旅の始まりまでをザッとやります。つまり、毎回、善十を演ずる博太郎さんが拝めるワケです。最終回に無いのは、もともと無いのかどうか、再放送しか見てないので不明。
ヒロインのお紺を演ずるのはかたせ梨乃。両親が無理心中の際放った火が江戸に大火を引き起こしたということで、どこかへ嫁ぐことは無理と男嫌いを決め込んでいたお紺。彼女が二十歳になって初めて恋をした。その相手が流れ者の火消し人足、善十(本田博太郎)。
雨の中、半纏を被いてお紺を待っている善十は、大変セクシー。善十は、お紺に安物の鈴を与えて嬉しがらせるけれど、お紺は、心も体も善十と一つという証がほしい。それで、お互いに登り竜と下り竜の彫り物を入れた。お紺の彫り物シーン、妖艶!お紺は、善十に抱かれながら「わたしはお前さんの半身なんだよ」と言いますが、お紺の半身の竜の彫り物は、善十と抱き合うと一つの図柄として完成するのかな?このあたり、ワタクシにはよくわかりません。善十のは背中一面に入ってるようですが、胸や上腕部はお紺と逆の右側。これかな?
お紺のために彫り物を入れた善十もそれなりに実がありそうですが、火消しや鳶なら彫り物は特別なことではなかったかもしれませんナ。あるいは、ひとが特別な思いを込めるようなことでも、目先の利のためなら事もなげにやってのける、そういう共感性の欠けた悪人なのか、善十は?どうもそういうことらしく、善十は新吉原でことを起こした揚句、少々の銭を奪おうとしてお紺の養い親・徳田九兵衛(下川辰平)を刺しそのまま行方をくらまします。
善十は、新吉原のひめちょうの間夫だったのか?善十にとって、お紺は互いに対となる彫り物をいれる相手ではなかったのか?そして、九兵衛を手にかけたというのはどういうことか?お紺は、善十の実と不実を見極めようと江戸を出て、善十が向かったという会津に赴きます。そこで、やはり火消し人足をしている善十を見つけて、新吉原のひめちょう殺しや九兵衛殺しについて問いただしますと、善十は適当な言い逃れ。「このとおり、わたしはお前さんの半身なんだよ」と片肌脱いで「ホントのことを言っとくれ」と匕首抜いて迫るお紺。善十も彫り物を見せて「お前と俺は半身同士。この彫り物が証だったんじゃねえのかい」とお紺を抱き寄せる。
最近の博太郎さんではあまり見かけない、また、若いころの博太郎さんでもあまり見かけない男の体臭がムンムンするような悪くて色っぽいならず者。
善十は会津でもやはり悪さをしていて、吹き矢をよくするお京(生田悦子)に狙われています。お紺とお京がやりあうのを、草藪に隠れて見ている善十。そして、結局、スタコラ逃げ出す善十。これが、善十という男の本質だな。
お紺は、人斬り未経験だった平手造酒(萩原流行)に遭遇しているのですが、お京の手下たちの襲撃を受けて実戦に開眼させてしまいます。軽そうな平手造酒ですが、はじめての人斬りの殺陣、なかなかよろし。
かたせ梨乃は、口の利き方は娘らしくはないけれど、女無宿人で小太刀の遣い手なんだからこれはこれで似つかわしい。見た目、時々、二十歳のおぼこのようなときがあって(もちろん、そうでないときも多いけれど)、大したものです。かたせ梨乃の何よりもいいのは、走る時も殺陣のシーンも足腰の動きが力強いこと。お紺がお京に匕首を投げつけるシーンで、あっと驚いたこと。左手だよ!?
あれれ〜ぇと、戻して殺陣の場面を見ると、左手で匕首ふるってる。左手で刃物を振り回す人物がいる殺陣って、やりにくくないのかな?善十を問い詰める場面で、お紺は左手に匕首を握っているけれど、あれは、左半身の彫り物といっしょに匕首も見せるためにそうしているのかと思っていました。しかし、お紺すなわちかたせ梨乃は、刃物は左手なんですね。
刃物は左手ですが、字は右手です。めし屋のおやじに頼まれて品札を書く時も、最後に投げあげた紙に“想い涸れましょうや”としたためるときも、お紺は右手を使っていました。毎回の最後にある、この場面―ヒラヒラ舞い落ちる紙が地面につくまでにお紺が何やら文字を書くシーンは、感心していいんだか、馬鹿にしていいんだか、何か微妙。
お紺の書字は右手で小太刀は左手。今更ながら、ちょっと発見でした。

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