『TAJOMARU』
公開:2009年9月12日 ワーナーブラザーズ
監督:中野裕之 脚本:市川森一、水島力也(原作:芥川龍之介『藪の中』)
怒れ、桜丸
立ち上がれ、山田さん
シェークスピアから借りてきたような王位簒奪騒動ですが、
不快感の残る映画です。われら、ただの下々の民としてはスカッとするはずもないではないか。
どこかのご立派な名門のクソガキが、偉そうに芋を恵んでくれて恩着せがましく「うまいか?」と問い、自分の持ち物のように勝手に“桜丸”などと名付けてしまう。兄弟同然に扱ってやったというのは、それこそ、支配者側の独善ではないか。それなのに今わの際に「芋はおいしゅうございました」などというものではない。もっと怒れ。
桜丸を演じた田中圭は、時々、生臭いような子供っぽさがあってあまり心地はよくありません。しかし、桜丸というのは子供っぽいところの残る年齢で無理やり何者かになろうとしたのだから、そういう感じは役としてあってもいいような気もします。
山田さんをはじめとする家臣団の身になってみると、直光(小栗旬)は自分の都合で畠山家を放り出して出奔したのです。家臣団としては放り出されては困るから、桜丸が直光を名乗ってそれで御所様(萩原健一)がOKで畠山家というシステムが維持できるならそれでいいではないか。(それにしても、畠山家にはずっと当主がいなかったんだろうか?信綱・直光の父親はどうした・・・?)
そこへ、大きな顔をして戻ってきて自分が直光だと言いつのる。そのあげく“直光”におさまった桜丸を殺してしまい、では、自分が畠山直光になるのかと思ったら「山田」と呼びつけにして直光になれという。やってられないではないか。山田さん、この際、“多襄丸”をひっ捕らえて盗賊として屋敷内で処刑してしまおうぜ。何を呆然としているのだ。
やってられないオマケ。パンフレットには山田役のキャストが載ってない!主なキャスト数人と、若干のスタッフしか名前が掲載されていなくて、その他大勢のキャストやスタッフは影さえない。もちろん映画のエンドクレジットには載っていますが、ひどいパンフレットだね。映画の客をなめとるのか?
さて、博太郎さん演ずる所司代・栗山秀隆。畠山家に現れるところから“お白州裁き(こんな用語があるかね?それに時代設定は室町時代ってんだろ・・・ブツブツ)”シーンまで。
栗山のお白州は全然“藪の中”ではない。関係者の言い分が食い違っていても、整合性のある部分は採られ、そうでないものは退けられる。シェークスピアで行けばハムレット“to be, or not to be”、“有る”と“有らぬ”は別物というのが栗山なんだろうな。ほとんど蒼白といっていいような顔色で、取り調べを受ける者たちの方へ前屈みになって見入るという姿勢がそのまま理非曲直、正邪を見極めようとする態度の表現になっていますね。
そこへ、来るはずがないと思っていた御所様登場。登場するだけならともかく、マクベスの魔女の言葉“fair is foul and foul is fair”みたいなことを言い放つ。萩原健一のセリフに思わずそうだそうだと賛成してしまいましたが、そうなっては正邪を見極めるなどすでに意味がない。栗山さんは階の下でかたまってるしかないではないか。
そういえばメイキング番組やメイキングDVDで注目された栗山の袖は映画ではあまり目立ちませんでした。
先代・多襄丸(松方弘樹)はステキ。饒舌なセリフも殺陣も圧倒的。
難を言えば、力量の差が歴然として小栗旬があまりに見劣りしてしまうこと。その点、阿古姫役の柴本幸は松方弘樹とよく渡り合っていて立派。柴本幸は声に力があってよいですねぇ!それに、地獄谷で幽鬼のように起き上がる姿も◎。
盗賊たちも楽しい。ただ、多襄丸として盗賊の仲間になった直光を聖人君子にしてしまったのはbooooo。先代・多襄丸の言葉に従って多襄丸を名乗ったんなら、盗賊としての極楽に身を投じてもらわなくちゃ。お白州では、道兼(やべきょうすけ)による衝撃の真相暴露もあるのですが、「ああ、そうかい」程度にしか受け取れない。盗賊たちが大納言家の金塊の噂をするとかなんとか、観客に何かあると思わせる伏線でも敷いておかなくちゃ。そういや、なんか脚本が杜撰だなぁ、“返り咲く”“お父様の馬車”などオイオイな言葉からハナシの組み立てまで。パンフレットによると、市川森一による悪女モノの芝居をエンタテイメント映画になるよう脚本の改訂をドタバタやったらしい。脚本に市川森一の名前がちゃんとあるということは、彼はこの出来に責任を持つということなんだろうな?
小栗旬は、台本の読み込みが浅いんだろうか?口先ばかりで、セリフに実が感じられない。
この映画の中で直光がどういう人物であるべきか、それにふさわしいように声の調子、抑揚、速度その他モロモロがちゃんと選ばれてないのだな。そのためもあるのでしょう、直光は傲慢で卑怯、薄っぺらな感情しか持たない人物に見えて、不快な後味の映画に・・・
大混乱の畠山家お白州近い縁先で、目を剥いてかたまっていた栗山秀隆、あれからどうしたんだろう。たぶん、役所勤めに嫌気がさして出家、放浪の旅に。それで、六条河原でも鈴ヶ森でもいいのだけれど、盗賊・多襄丸とその情婦としてさらされている直光と阿古姫の生首に遭遇するのがいいナ。自儘な自由は、それなりの代価を払わねば帳尻があわない。でも、栗山秀隆のあの顔色では、ほうほうの体で家に帰りついてそのまま悶死してしまったかもしれぬ。
芥川龍之介の『藪の中』と関係しているのは
多襄丸という名前、連れの女の「あの男を殺して」、月毛の馬が草を食べてること。
御所様のいう「すべてが正しいよう思われるが、すべて間違っているようにも思える」というのが、芥川龍之介の『藪の中』の雰囲気を受け継いでいる、ということくらいかな?

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