辛酉元旦紀元前660年、神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)―漢風諡号・神武天皇は大和国橿原の地で即位する、と古事記にある。
また、日本書紀には「夫(か)の畝傍山の東南、橿原の地は、蓋し国の墺区(もなか)の可治之(みやこつくるべし)。すなわち有司(つかさつかさ)に命(ことお)せて、帝宅(みやこ)をつくり始む」とある。
昭和15年(1940)、この年が皇紀2600年に当るとして盛大な奉祝式典が挙行された。さすれば、今年は、皇紀2670年になる。その根拠はともあれ、現在、今日2月11日はわが国の建国記念日として、国民の休日となっている。紀元節として戦前、唄われたこの日のための歌は、ナツメロとして、微かに耳の奥を擽る。その中から、歌人高崎正風作詞、伊沢修二作曲の文語調唱歌を記す。これは、神武天皇の日向から大和に東征の成果を讃えた長歌である。
雲に聳ゆる高千穂の 高根おろしに草も木も
なびきふしけん大御世(おおみよ)を
仰ぐ今日こそたのしけれ
海原なせる埴安(はにやす)の
池のおもより猶(なお)ひろき
めぐみの波に浴(あ)みし世を
仰ぐ今日こそたのしけれ
天つひつぎの高みくら 千代ろずよに動きなき
もとい定めしそのかみを
仰ぐ今日こそたのしけれ
神武から開化までの9代の天皇は葛城山麓に勢力を持ち、葛城王朝と呼ばれて一時代を形成していた。しかし、多くの歴史家は、この王朝の位置づけを欠史9代として取り扱う。真偽のほどはさておき、畝傍山周辺に神武以下懿徳までの4代の陵墓があるのは、この地域が葛城から見て死後の黄泉の地としての幽界のイメージがつき纏うからではなかろうか。因みに、その4代の陵墓名と所在地を示す。
1 神武 畝傍山東北陵 橿原市四条字田井ノ坪
2 綏靖 塚山桃花鳥田丘上陵 橿原市山本
3 安寧 畝傍山南、御陰井上陵 橿原市吉田字西山
4 懿徳 畝傍山南、繊沙渓上陵 橿原市畝傍町池尻字カシ
古事記によると、神武死後、その子、当芸志美美命(たぎしみみのみこと)は、継母の伊須気余理比売(いすけよりひめ)に通じようとした。彼女と神武の間には三人の息子があり、当芸志美美には、その三人が邪魔になり、三人をひそかに消そうとの企みがあることを知った、伊須気余理は、その危険を知らせるため、次の歌を詠む。
畝火山昼は雲と居 夕されば風吹かむとぞ木の葉さやげる
(畝傍山は昼は雲がかかっており、夕方には風が吹き不吉な兆しが迫っていて、木の葉がざわざわ騒いでいる。)
畝傍山に黄泉の国の暗示があるからこそ、このような歌が詠まれたのであろう。
この葛城山麓の旧家に生れ育った歌人、前川佐美雄でなくては詠むことのできない名吟二首を掲げる。
築坂(つきさか)は桃花鳥阪(つきさか)よなとひとりごち
千塚こもれる鳥屋の丘ゆく
丘つづき鳥坂(とさか)の森に入り来つれ
往古(むかし)は桃花鳥(とき)の鳥も鳴きけむ
建国の記念日に大和葛城の故地を想い、そのロマンに充ちた古代人たちの興亡の歴史を考えると、時空を超えた、想像の世界が拡がる。
―今日のわが愛誦短歌
・血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとりの愛を
うつくしくする
岸上大作
―今日のわが駄句
・淀のそら青透くばかり凍てにける

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