春の彼岸なので、かつて飼っていた紀州犬を想い出す。18年の歳月を家族とともに、過ごした日々が懐かしい。名は「讃良媛(ささらひめ)号」といい、いつもみなから「ささら」の愛称で呼ばれた牝犬である。第41代天皇は天智天皇の第二皇女の持統天皇である。名は鸕野讃良(うののさらら)、天武天皇の皇后であったが、天皇死後政務を執る。が、皇太子の夭折(ようせつ)で自ら即位する。
この女帝にまつわる、いろいろな出来事は、記紀、万葉集を通して知られ、日本歴史上波蘭万丈のかずかずの物語を提供している。壬申の乱、大津皇子謀反・・など。そして、持統天皇といえば、
春過ぎて夏来(きた)るらし白たへの衣干したり天(あま)の香具山
の小倉百人一首にもある名高い歌がある。
午後、思い立って、その史跡を訪れる。持統天皇の在位(690−697)は9年間ではあるが、その間、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)から藤原京に遷都(せんと)している。この宮都は、歴史上、飛鳥時代と呼ばれ、6−8世紀初期の東アジアの文化圏の一つを形成していたわが国の中心地であった。その中心で、当時、その影響力大の実力の持ち主であったのが持統天皇であった。
香具山の麓にある、藤原京跡に足が向く。其処に「藤原京跡資料室」なる建物があり入室する。パンフレットには解らぬことがあれば、橿原市役所・世界遺産推進課に問い合わせよ、とある。監視員を地元の住民の順番制に委託しているらしい。
藤原宮の御井(みい)の歌
やすみしし 我(わ)ご大王(おおきみ) 高照らす
日の御子(みこ) 荒栲(あらたえ)の 藤井が原に
大御門(おおみかど) 始め給(たま)ひて 埴安(たかやす)の
堤の上に あり立たし 見(み)し給へば 大和の
青香具山(あおかぐやま)は 日の経(たて)の
大御門に 春山と 繁(しみ)さび立てり 畝火(うねび)の
この瑞山(みずやま)は 日の緯(よこ)の 大御門に
瑞山と 山さびいます 耳成の 青菅山(あおすがやま)は
背面(そとも)の 大御門に 宜(よろ)しなべ 神さび立てり
名くはし 吉野の山は 影面の 大御門ゆ 雲居(くもい)にそ
遠くありける 高知るや 天(あま)の御陰(みかげ) 天知るや
日の御陰の 水こそば 常にあらめ 御井の清水(きよみず)
萬葉集巻1−52
柿本人麻呂のこの雅歌に詠まれているが如く、大和三山に囲まれたこの宮跡を世界遺産にしようと活動する地元の熱意は理解できる。歌人斎藤茂吉は、その井戸の所在を克明に追及した情熱を想い起こす。
そのあと、お彼岸なので二上山の雄岳雌岳の鞍部にかかる落日を拝もうと、三輪山麓の檜原神社に足をのばす。二上山は持統天皇への謀反の疑いありと誅せられた、大津皇子の眠る山である。この神社の注連縄(しめなわ)の彼方に二上山が望まれ、そこからの入り日を撮影する絶好のスポットとして、多くのカメラマンが集まっていた。だが、待つこと2時間近く、西に傾いていた太陽の落日を捉えることなく、春霞に覆われてしまう。
大津の皇子の無念さを偲びつつ、さくらの花の蕾の固さをみながらその地を後にする。
―今日のわが愛誦短歌
・雲よむかし初めてここの野に立ちて
草刈りし人にかくも照りしか 窪田空穂
―今日のわが駄句
・春かすむ大和の知人幾人か


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