上方落語に「阿弥陀池」(あみだいけ〉という噺がある。あらすじは「新聞を読まず、世間の事情に大変、疎い男がいる。阿弥陀池に強盗が入っただの、近くの米屋に泥棒が入っただのという話を、手にとるように聞かせて、周囲の者を巻き込むが、実はどちらもよく出来た、にわか話であった。その話に騙(だま)されて、気が収まらない男は、それをネタに誰かを引っ掛けてやろうと、知人の家に勢いこんで、乗り込んで行くのだが・・・」
善は急げではないが、大阪西区堀江にある あみだ池に行ってみる。 境内には阿弥陀池と呼ばれている池がある。この付近の地名、あみだ池の語源となっているらしい。 池の中央には放光閣(ほうこうかく)という宝塔があるが後世(調べると、1945年3月13日の大阪大空襲で焼失〉戦後に建てられたのが一目で分かる。
この池の名から思い起こすのは、信州長野の善光寺の故事である。信州・善光寺本尊である一光三尊の阿弥陀如来は欽明天皇13年、百済国より仏教伝来とともに伝わり、日本最古の仏像とされている。仏教伝来以降、崇仏(蘇我氏)・廃仏(物部氏〉の論争が続く中、廃仏派の物部氏により難波の堀江に棄てられ、 その仏像を信濃国、国司・本田善光が池より救ったという。このことからこの池が阿弥陀池といわれるようになった。
後に池から救い出された阿弥陀如来は長野県飯田市に祀ったが、皇極天皇元年(624年)に現在の善光寺のある長野市元善町に移された、ということになっている。
雨降るなか訪れた阿弥陀池がある和光寺は御多分にもれず、此処もビルに囲まれた場所になっているが、境内の池は雨にうたれて緑青いろの水を溜めていた。山門を入る折、目にした貼り紙に「境内での、もめごと、トラブルに関しては、一切その責を負はない」との文言がいたく気になる。参拝者がたったひとりのわが周囲を改めて、警戒したくなるほど、深閑としているのだが、ああ、そうか、此処は落語「阿弥陀池」の和光寺だったことを気づき、腑におちる。― 以下は、その落ちに至る一節である。
アホが隠居の甚兵衛はんに「新聞読みや。」と諭される。
「何でだすねん。」
「ええ若いもんが、新聞読まな。この前も『号外や』いうてんの『妨害や!妨害や!』て云うてたやろ。・・・三十五にもなってからに。」
「だれが三十五だす。」
「三十五ちゃうのかいな。」
「何云うてなはんねん。三十八やがな。」
「よけいアホや。」
「そんなもン。わたい新聞読まいでも世ン中のこと知ってるわ。」とアホが意地を張るので、
「ほんなら、お前和光寺知ってるか。」
「知りまへん。」
「ほれ、この前松島の帰り夜店ひやかしたやろ。」
「ああ、それやったら堀江の阿弥陀池ちゃいますか。」
「そうや。ホンマの名は和光寺、阿弥陀池は境内にある池の名前で、尼寺や。」
「尼寺て何でやす。」
「女の坊ンさんを尼さんという。その尼さんがいなさるよって尼寺じゃ。」
「ははあ。ほたら男の坊ンさんは西宮か。」
「これ、神戸行きの電車乗ってンのやないで。…その和光寺にこの前、賊が入ったの知ってるか。」
「へ!? わたいそんなん知りまへんがな。」
「ほら見て見イ。新聞にちゃんと書いたある。せやから、新聞読まなあかんのや。」
と話をし出す。
和光寺の戦争未亡人の尼さん。ある晩に忍んで来た泥棒が「金を出せ」とピストルを突きつけるが、落ち着き払った尼さんが言うには、「過ぎし日露の戦いに、私の夫・山本大尉は乳の下、心臓を一発のもと撃ち抜かれて名誉の戦死を遂げられた。同じ死ぬなら夫とおんなじ所を撃たれて死にたい。さぁ、誤(あやま)たずここを撃て。」(桂文屋が創作した時期が日露戦争の後であり、実際に未亡人も多かった。)
「それを聞いたこの泥棒、三尺下がって平伏したんや。」
「あはあ。座敷臭かったやろ。」
「何じゃそれ。」
「三尺下がって屁エこいた。」
「何云うとるねん。『私はかつて山本大尉の部下で、山本大尉は命の恩人とも言うべき人、その恩人の奥さんのところへピストルを持って忍び込むとは無礼の段、平に御免…』ピストル己の胸に当てて、うつとこを、尼さんその手を押さえ『おまえが来たのも仏教の輪廻。誰かが行けと教えたのであろう。』『へぇ、阿弥陀が行けと言いました。』」。
如何が、お分かり、戴けたでしょうか。降りしきる雨に濡れながら、静かに和光寺の山門を辞す。
世間(よのなか)はちろりに過ぐる ちろりちろり
何ともなやなう 何ともなやなう うき世は風波の一葉よ
何せうぞ くすんで 一期(いちご〉は夢よ ただ狂へ
「閑吟集」より
―今日のわが愛誦短歌
・海紅豆(かいこうづ)咲きて散りゆくとめどなき
世の累積(るいじゃく)も踏めばくれなゐ 安永蕗子
―今日のわが駄句
・二適目の泪は嘘よ走り梅雨


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