松屋町筋から口縄坂を上って行くと坂の途中に大阪府立夕陽丘高女の旧跡を示す碑がある。そして、さらに上りつめた場所に、少年期、この付近に住み、日々この女学校に通う生徒に胸をときめかせていたであろう織田作之助の文学碑が建てられている。
「口縄坂は寒々と木が枯れて、白い風が走っていた。私は石段を降りるて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思った。青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直って来たように思われた。風は木の梢に激しく突っかかっていた。」
この地の一帯こそ、従二位藤原家隆卿が隠棲の地と定めた夕陽丘である。鎌倉時代の説話集『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』の現代語訳から抜粋すると家隆郷のことが以下のようの書かれている。「家隆卿は、若い頃から往生のための修行をすることもなかったが、病気になり七十九歳の時に出家。京都から天王寺に来て、ある人の教えによって弥陀の本願に帰依して、ひたすら念仏を唱えだした。嘉禎2年(1236)12月23日に出家、翌年4月8日、前世からの和歌のこだわりを感じたのか、以下の七首の和歌を詠まれ4月9日、その最期を悟って午後6時頃「今、本物の仏がお迎えに来るのだから、本尊も安置することはない」と言い頭を洗い、きれいな莚に正座して亡くなる」と記されている。

大江神社境内の「夕陽丘」の碑
『新古今和歌集』の選者の一人で百人一首に「風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける」の作者でもある。藤原定家と並び称された和歌の達人による辞世である、以下の和歌というのは
・契りあれば難波の里にやどりきて波の入り日ををがみつる哉
(前世からの約束があったので、このように難波の里にやってきて波に映っている夕陽を拝んでいる。)
・なはの海を雲井になしてながむれば遠くもあらず弥陀の御国は
(難波の海を天上の雲に見立てて眺めると、遠いとは思われない。弥陀の国は)
・二つなくたのむちかひは九品(ここのしな)のはちすのうへもたがはず
(ただこれ一つ遂げさせて下さいとあてにする誓いは、極楽浄土の上品上生の往生が間違いないということであるよ。)
・八十(やそじ)にてあるかなきかの玉のをはみださですぐれ救世(くぜ)の誓に
(もう八十歳になってしまい老い先のない、はかない命と思い、心を乱すことなく過ごしている私を、浄土に迎えるひとのなかにお選びください。)
・うきものと我ふる郷(さと)をいでぬとも難波の宮のなからましかば
・阿弥陀仏と十たび申してをはりなば誰もきく人みちびかれなん
・かくばかり契りましますあみだぶをしらずかなしき年をへにける
(このように約束していた阿弥陀仏のことを今まで知らず、無為に年を重ねてきたことよ。)
藤原家隆をこのような心境にさせたのは、落日を見ながら西方極楽浄土を思い浮かべる日想観(にっそうかん)の思想があったからであろう。そして、この場所が大阪湾に沈む夕陽の荘厳さを眺めるのに絶好の場所であったのがここ「夕陽丘」であったのだ。
現在は西方は大阪市街が拡がりすぎていて、かって崖の下まで茅(ちぬ)の海と呼ばれた大阪湾の波が押し寄せていた面影はない。家隆卿の墳墓と伝えられる塚が一基残るのみである。
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―今日のわが愛誦短歌
・日本の古典は すべてさびしとぞ
人に語りて、かたり敢へなく 釈迢空
―今日のわが駄句
・竹婦人粉砕したき白昼夢

家隆塚から西を望む

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