大阪市立美術館で「住吉(すみよっ)さん―住吉大社1800年の歴史と美術」と銘打たれた特別展が開催されているので拝観に出掛ける。大阪人が「すみよっさん」と親しみを込めて呼んでいる住吉大社が来年鎮座1800年祭を迎えるに先立っての展覧会である。@「住吉信仰と住吉大社の歴史」、A「住吉神と和歌」、B「描かれた住吉のイメージ」、C「住吉の祭礼」の四つのテーマにそって展覧されている。
@「住吉信仰と住吉大社の歴史」によると、住吉神はイザナギノ尊がイザナミノ尊を追い黄泉(よみ)の国に行った穢れを清めるために禊ぎ(みそぎ)祓いをしたとき、その水中より出現されたといわれている。重文の『古事記』(神宮文庫)、『日本書紀』(熱田神宮)に始まる住吉大社の歴史のなかで面白いのは『豊臣秀吉大政所延命祈願状』と『徳川家康禁制』。秀吉の延命祈願状文面は如何にも秀吉らしい味わいがにじみ出ている。すなわち、
猶以命儀三ヶ年 不然者二年実々不成者 三十日にても憑被思召候
今度大政所 煩於本腹者、為
奉加壱万石可申 付候条弥可被抽
懇祈事専一候也 六月廿日 (秀吉花押)
住吉
に示されている如く、天正16年(1588)6月、生母の大政所の病気平癒を祈願した秀吉は、宮中で神楽を奉納、住吉社をはじめ畿内の社寺に延命祈願をした。その文面には、三年でも二年でも三十日でもよい、母の命を永らえさせてほしいとの母を想う心情がよく表れている。その効験あってか大政所は本復して、四年後の天正20年7月22日まで延命している。
A「住吉神と和歌」では、平安時代。高野詣で、熊野詣でをかねて、京から住吉を訪れる貴人が増え、貴族たちは住吉の神に和歌の上達を願い、社頭での歌会、歌合わせをして神を慰めた。風光明媚な住吉の地は歌枕としての必然性の名所となった。江戸時代、松平定信が賛をした住吉広行描く『和歌三神図』にみる三神(玉津島神<衣通姫>・住吉神・柿本人麿)と狩野探幽(1602−74)の『和歌三神図』は、紀伊国の歌枕「藤白」図、「和歌の浦」図、そして、「和歌三神図」の名人、探幽描く三幅は見ごたえがある。
B「描かれた住吉のイメージ」。中世になると、蒔絵箱、硯箱の模様として、住吉をイメージする美術工芸品の佳作が登場する。「扇の草紙」は、さまざまな図柄の扇面との周囲に対応する和歌の書き散らしが面白い。住吉といえば謡曲『高砂』の「高砂や、この浦舟に帆を上げて、帆を上げて、月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉(すみのえ)に着きにけり」と、かって結婚式場などの商業施設がなかったころの日本人の結婚式は、婚家の座敷で仲人が朗々とこの『高砂』の冒頭の一節を謡いながら、新郎・新婦が三三九度の盃を取り交わした馴染み深い思い出がある。重文の『姥』(伝千代若)『少尉』(伝小牛)『舞尉』(伝三光坊)の傑作面を至近で眺めながら尾形光琳(1658−1716)『白楽天図屏風』の迫力に圧倒される。
C「住吉大社の祭礼」。正月の初詣の賑わいは、流石に摂津国一之宮と言われている貫禄と威容さがある。淀君が奉納した石造りの橋脚がある太鼓橋を渡った懐かしさを忘れることが出来ない。また、5月初の卯の日。住吉大社が鎮座したのは、神功皇后11年辛卯歳卯月上卯日と伝えてられるいる「卯之葉神事」のこと。6月14日にある「御田植神事」。大阪の夏祭りの掉尾(ちょうび)を飾る7月31日の夏越祓神事と大祭。8月1日の神輿渡御がある「住吉祭」。松尾芭蕉が「升買うて分別かはる月見かな」と詠んだ「宝之市神事」が10月17日にある。そして、毎月はじめての辰の日「初辰さん」。招福のねこの土偶を受けて祈願する。四十八か月間続けると「始終発達(しじゅうはったつ)」(四十八辰)の福があるとの信仰がある「初辰まいり」などの民間信仰に人気がある。大阪人にとっては四季を通じて愉しみな年中行事が待っている。
「すみよっさん」各方面に渡る、文化遺産のかずかずを拝見して、美術館を後にしたのだが、あまりの多様さに疲れてしまった。
―今日のわが愛誦短歌
・すみの江の岸に寄る波夜さへや
夢の通い路人目よくらむ 藤原敏行
―今日のわが駄句
・哀れさを一目瞭然葛の花

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