山形に親戚がある知人から今年も胡桃(くるみ)の実を送って来たのでと、お裾分けにあずかった。
アメリカでは子孫繁栄の意味を込めて、結婚式の際にクルミを撒く習慣があるらしい。そんなことはわが国の風土にはないアメリカでの話で、そのような風習も聞いていない。胡桃の実といえば、 生半可な硬さでないために、簡単には割れない代物である。そのために専用のクルミ割り器(クラッカー)もあるらしい。なお、クルミ割り人形は、これを人形の頭にして、顎にクルミを挟ませて噛み割るように見せるものであり、また、人形の形をした胡桃を割る道具であるという。その他には、手のひらにクルミを握り込んで転がすのが握力の鍛錬になるとか、老化の防止になるなどの効用もあるというので愛用している人も多い。実は私もその一人だ。
『くるみ割り人形』(くるみわりにんぎょう、露(原題): Щелкунчик, 仏: Casse Noisette, 英: The Nutcracker)と言えば、チャイコフスキーの作曲したバレエ音楽(作品番号71)、及び、それを使用した2幕3場のバレエ作品のことを想起する。バレエ『くるみ割り人形』とはWikipediaの編集から拝借させてもらうと、以下のストーリーである。
第1幕
第1場
クリスマス・イブの夜、ドイツのシュタールバウム家の大広間ではパーティーが行われている。少女クララはドロッセルマイヤー老人からくるみ割り人形をプレゼントされる。ところが、取り合いになり兄のフリッツが壊してしまったので、ドロッセルマイヤー老人が修理する。
客も帰りみんなが寝静まってから、クララは人形のベッドに寝かせたくるみ割り人形を見に来る。ちょうど時計の針が12時を打つ。すると、クララの体は人形ほどの大きさになる(舞台ではクリスマスツリーが大きくなることで表現される)。そこに、はつかねずみの大群が押し寄せる。くるみ割り人形の指揮する兵隊人形たちがはつかねずみに対し、最後はくるみ割り人形とはつかねずみの王様の一騎打ちとなり、くるみ割り人形あわやというところで、クララがスリッパをはつかねずみの王様に投げつけ、はつかねずみたちは退散する。倒れたくるみ割り人形が起きあがってみると、凛々しい王子になっていた。王子はクララをお菓子の国に招待し、2人は旅立つ。
第2場
雪が舞う松林に2人がさしかかる(雪片の踊り - 雪の精たちのコール・ド・バレエ)
第2幕
お菓子の国の魔法の城に到着した王子は女王こんぺい糖の精にクララを紹介する。お菓子の精たちによる歓迎の宴が繰り広げられる。劇末はクララがクリスマスツリーの足下で夢から起きる演出と、そのままお菓子の国にて終わる演出がある
バレエならではの、幻想的な場面を想像しながら、更けゆく秋を惜しむのもまた一興ではある。
偶々、先日の亡母の法要のお礼にいとこが立ち寄ってくれた。代も代わり、疎遠になっている縁者の消息になってきた。思わぬ現実が、飛び出してきて驚く。子供のころの顔がチラついてはくるが、人生の荒波に抗いながら、家庭生活の破綻話を聞き知ると胸が痛んでくる。胡桃の実を掌のなかでこすりながら、家庭悲劇を聞きながら、胡桃の擦れ合う響きは悲歌となって、遣る瀬無い。『胡桃の日』(歌・作詞・作曲:さだまさし)の哀愁がよみがえってくる。
窓の外には雨とから松 枝にはるりかけす
君の前には僕の前には 胡桃の実がひとつ
言葉がいらなくなったのではなく
言葉を忘れたってこと
お互いわかっているから おしまい
この狭い部屋の中で
君の知らない僕と 僕の知らない君が
カラカラと音たてて 転げ廻っているじゃない
窓の外には雨とから松 枝にはるりかけす
君の前には僕の前には 胡桃の実がひとつ
何気ない言葉で傷つくみたいで
思わず君に向かって
振りあげた 右手のこぶしで一体
僕はなにをしようとしてた
まるで胡桃を素手で 割ろうとしている様で
驚いて振り向いた 君の目が哀しい
身につまされる、哀感を感じさせるポエジーである。
さて、胡桃割り人形で胡桃を割って戴くことにする。中国では、昔、胡桃は貴族の美容食として重宝されたらしい。高血圧、動脈硬化予防、肌あれ防止に効用があるという。
―今日のわが愛誦短歌
・なにごとも思ふべきなし秋風の
黄なる山辺に胡桃をあさる 若山牧水
―今日のわが駄句
・秋惜しむ無口に近き話声

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