残んの紅葉狩りに、最近は知らぬが、十数年前までは殆ど訪れる人がなかった、隠れた紅葉の名所として人々に薦めていた、京都洛北高野川畔の蓮華寺にでもと思い付いたのだが、どうしても体がその気になってくれず、終日、家居を決め込む。馬場あき子の短歌のなかに、
・太虚(おおぞら)は明るくありて秋の気の流れ静かに人を忘るる
と詠まれたような絶好日なのに、無精の虫が蠢いているのか、腰があがらず、午後が過ぎて行った。
昭和3年(1923)生まれの馬場あき子も、私が大学の短歌サークルに属していた、昭和30年初めごろは、無名に近い歌人であったが、私が60年安保の挫折感を味わい短歌と訣別した後、山中智恵子、安永蕗子とともに、前衛であり古風、難解であり平易な作品を古典を踏まえた新鮮な技法を駆使して詠み続けた女流歌人に成長していた。馬場あき子には「能」、山中智恵子には「斎宮」、安永蕗子には「書」の世界の教養があり、それぞれが、短歌以上の専門家の評価が与えられている。従って、私も短歌を辞めたあとも、一般新聞紙上に発表されている彼女らの文章を読むのを楽しみにしていた一人である。
・女青(かはねぐさ)水に伏したり生くる日の限りにありて対(むか)ふこころを
・虚数世界に生くるものらのやさしくて植物のごとき手足をひらく
実在しない虚数の世界に生き、巫女と呼ばれ、伊勢神宮斎宮の世界を発掘した山中智恵子も先年幽界に入った。正述心緒という、現在では死語に等しいこころの持ち主であった。
・棕櫚の花こぼれて青き甃(いし)のうへ禽を愛してひと時ありしか
・落ちてゆく光も赦(ゆる)し難くゐて夕べつかれし双の眼をもつ
・砂なかに双掌(もろて)埋めて温かしはかなきことも海に来てする
昭和31年(1956)-『棕櫚の花』で第2回角川短歌賞受賞。当時、大学の短歌サークルで勉強中であったが、この安永蕗子の登場に鮮烈な衝撃を覚え、研ぎすまされた言葉に、鋭利な刃(やいば)を咽喉もとに突きつけられたような恐怖を感じたのを思い出す。
・唇を捺されて乳房熱かりき癌は嘲ふがにひそかに成さる
・メスのもとあばかれてゆく過去がありわが胎児らは闇に蹴り合う
・灼(や)きつくす口づけさへも目をあけてうけたる我をかなしみ給へ
・冬の皺(しわ)よせゐる海よ今少し生きて己れの無惨を見むか
の中城ふみ子「乳房喪失」の世界や、
・チェホフ祭のビラのはられし林檎の木かすかに揺るる汽車の過ぐるたび
・そら豆の殻(から)一せいに鳴る夕(ゆうべ)母につながるわれのソネツト
・大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ
・村境の春や錆びたる捨て車輪ふるさとまとめて花いちもんめ
・降りながらみづから亡ぶ雪のなか祖父(おおちち)の瞠(み)し神をわが見ず
の寺山修司のメルヘンの世界の物語性とは違った、知的な感性に支配された、馬場あき子、山中智恵子、安永蕗子の世界は短歌を離れた現在でも感銘をうける。
紅葉狩りを諦め、日がな一日を、忘れかけた過去の一時期の自分を思い出しながら、書架から、短歌関係の書物を引き出し、行楽でない読書の秋の一刻を享受した。
・秋風は過去の索引そのなかに萩咲けば萩は思ひ出づらむ
いみじくも、この馬場あき子の短歌から触発されている、今日のわが愚人ぶりではある。
―今日のわが愛誦短歌
・奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の
声きく時ぞ 秋はかなしき 猿丸太夫
―今日のわが駄句
・時雨して犬駆け抜けるところより

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