承前。
藤浪に雨かぜの夜の匂ひけり清冽な山岳句で名高い前田普羅の作であるが、折からの季節をかえる風雨のなかで大きく揺れている藤の浪を見ていると、普羅の感性が伝わってくる。
野田の藤は古来より
吉野の桜、野田の藤、高雄の紅葉と童謡に唄われるほど有名で、多くの施政者たちに愛でられてきたことが伝わっている。
いにしえのゆかりを今も紫のふじなみかかる野田の玉川
と、室町幕府の2代将軍・足利義詮が詠んだ歌によりこの地が玉川と呼ばれるようになったらしく、豊臣秀吉もまた藤見に訪れている。
江戸時代の狂歌師・大田南畝(蜀山人、1749〜1823)は
門前の木よりして藤咲きかかれり、門に入りて見るに、木々の末に藤咲きかかりて紫の雲の如し。又白き藤ありと書きしるしており、当時は雲のように咲く多くの藤があった様子がよく分かる。
その後、野田の地区の開発や空襲で一度は全滅した野田藤であったが、参勤交代の途中に伊予藩に持ち帰っていた株が大きく成長していたのを株分けしてもらい復活させて今日に至ったのを知った。
時に、四天王寺境内で、恒例の春の古本市が開催されている。知り合いの古書店主からの案内があったので、出掛けてみる。物色したなかに福島民友新聞社刊『ふるさと再発見―福島県市町村新風土記』を発掘する。福島民友新聞といえば、自由民権家の河野広中(1849−1923)が創立した新聞社である。その創刊80周年を記念して昭和50年(1975)に発刊されたもので、昭和48年から49年にかけて連載されたもがまとめられている。「県北」「県南」「会津」「浜通り」と区分けされていて、この度の東日本大震災で連日マスコミに取り上げられている福島県の地名が飛びこんでくる。特に浜通りにある、いわき市、原町市、相馬市。原発被害でデットタウンと化した、広野町、楢葉町、富岡町、川内村、大熊町、双葉町、浪江町、葛尾村などの地名が目に痛い。
いまは山なか いまは浜 いまは鉄橋 わたるぞと 思う間もなく トンネルの やみを通って ひろの原の文部省唱歌「汽車」の風景は広野町の情景をうたったものと言われている。そして、「原発の夢」と題した項目の記事がある。
双葉地方の海岸線が日本最大の原子力発電基地として建設が進んでいる。双葉・大熊の両町海岸にまたがる東京電力福島第一原発に第三の火がともり、近い将来、原子炉六基で四百七十万キロワットの原発基地になろうとしている。また富岡・楢葉の両町にまたがる海岸には、同じ東京電力福島第二原発の工事が始められており、ここでも四百四十万キロワットの電力が生みだされる。太平洋の烈しい波が打ちつけて断崖絶壁が続く双葉地方の海岸線。それが原子力発電基地として、日ごとに姿を変えている。福島第一原発には六基の原子炉がつくられるが、このうち四号機までが大熊側、五号と六号機が双葉側につくられる。原発ブームに双葉町が無縁というわけはない。福島第一原発の建築現場で二千人からの人たちが働いており、地元の商店街にはかなりのうるおいがみられる。近くに働き場所があるため出かせぎも減少した。町の郊外には東京電力社宅団地が生まれ、新しい人口がふえた。また町民体育館と公民館が二億円で建てられたが、ここには東京電力から、‘協力お礼’の三千万円がはいっている。二千人を収容できる一部三階建ての巨大な体育館は、冷暖房つきのデラックスなものだ。三十五年前の楽園の夢は、いま地獄の悪夢に曝されている。想定外の結果が出てしまったのだ。昭和48年(1973)三十八年前の新聞記事を読み返すのも切ない。
―今日のわが愛誦句
・
山一つ持てる広野や百千鳥 増田龍雨
―今日のわが駄作詠草
・藤の浪あざやかに虚空覆いたり
過ぎたる日々の山河青なり


43