昨日の話の続きがまだある。古来、日本歴史上、記紀、万葉、奈良、平安、南北朝と文献にあるかぎりでは、皇子としての立場にある人物は、好むと好まざるに関わらず政争に巻き込まれる悲劇性をもっていた。古代、上代、皇太子という称号はその耀かしさの蔭に暗欝さを常に帯び続けていたような翳惨さがある。貴種という同腹、異腹を問うまでもなく、その数が多ければ多いほど、政争の具に利用された例は数えきれない、不吉な予感をたたえていた。
在原業平の兄、平城天皇の第一子阿保親王(792−842)も、そんな政争に巻き込まれた節がある。弘仁元年(810年)、薬子の変に連座して大宰権帥に左遷される。弘仁15年(824年)に平城上皇が亡くなった後、嵯峨天皇によってようやく入京を許される。しかし、このような配慮にもかかわらず、嵯峨天皇が宮廷内の権力を固めてゆく中において、嫡流の地位を失ったとは言え、桓武天皇の嫡系の孫である阿保親王の動向は注目の対象であったのは当然の成り行きであったろう。そんな折に橘逸勢らから東宮恒貞親王の身上について策謀をもちかけられるが、阿保親王は与せずに、これを逸勢の従姉妹でもあった皇太后橘嘉智子に密書にて報告、その判断を委ねた、世に言う承和の変であるのだがその変の3ヶ月後、阿保親王は急死している。
不退寺はその政争の背景にあって在原業平が建てた鎮魂の匂いがする。新古今集のなかにある在原業平の和歌に、
白玉か何ぞと人のとひしとき露とこたへて消(け)なましものを
というのがあるが、この和歌から推量できることは、業平が愧じを知って死を望む心境にあることが想像できよう。当時、在原業平が置かれた立場の悲劇性を考えたら、藤原家との抗争に敗れたということではないだろうが、自分の立場が見方によれば、その累の及ぼすところは厄病神的な存在になるのだろうということであろう。いろいろこの事件のもたらす後遺症に業平は悩んでいたのだろうことが考えられる。
さて、在原業平と紀有常(きのありつね)の娘の跡を弔う旅僧の前に女が現れ、昔を語る。高安の愛人に通う業平を妻は恨むどころか、夜道を通う夫の身を案じ歌を詠む。その心が業平の高安通いを止める。回想はさらに過去へ遡る。幼ななじみの男女が成人し、互いに歌を交換して、やがて恋が実る。そう語り女は姿を消す。僧の夢に女は業平の形見を身に着けて現れ、思いを込めて舞う。のぞき込んだ井筒の水鏡に映った姿は、業平の面影そのまま。懐かしく思いながらも、夜明けとともに亡霊は姿を消す。謡曲『井筒』のあらすじである。この話は、伊勢物語を典拠とする世阿弥の幽玄能の代表作である。
筒井筒 井筒にかけし まろがたけ
過ぎにけらしな あい見ざる間に
その返しが、
くらべ来し 振分け髪も 肩すぎぬ
君ならずして 誰かあぐべき
である。「あなたと逢わないでいる間に私の背丈も大きくなりました。」「昔、長さを比べあった私の振分髪も、肩をこすまでに長くなりました。あなたより他の誰のために、この髪を結いあげましょうか。」業平と最初の妻有常の娘との幼馴染が交わした相聞歌である。
後世の川柳子は、
井戸端の子は寸にしてその気あり
いい男井戸の向こうにいい娘
有常もあぶなく思う遊び場所
井筒から深い仲とはきついこと
蛙鳴く業平寺の大井筒
取膳の時も業平筒井筒
と在原業平の一代記は井筒にはじまり、井筒に留まるということであるのだが、幼馴染の男女はその後も一つ膳で向かう仲睦ましい夫婦で終わったのだろう。『井筒』を思いながら、夕刻迫る、在原寺(在原神社)に残る、古井戸を眺めながら、その井戸と背比べしていた幼い男女の来し方行方を偲んでいる。
―今日のわが愛誦句
・
蚊や人を夜は食らへども昼見えず 調和
―今日のわが駄作詠草
・千年も前の恋うた偲びつつ
遥かに来たり蚊柱のたつ里

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