近江の草津を目差しているのだが、寄ってみたいところがあり高速道路を使用せずに出掛けることにした。枚方バイパスを307号線に折れる。古来、日本歴史に大きな関りのあった、近江水口への間道である。ここを行けば木津を越え、宇治田原に至る。そのあたりのところを白洲正子の『かくれ里』の描写を借りることにする。
昔から大和と近江、そして京都を結ぶ要害の地であった。壬申の乱に、天武天皇が、大津から逃れて吉野へ落ちて行かれたのも、田原道であったし(宇治拾遺物語〉、恵美押勝の乱に、官軍がいち早く先回りして、勢多で迎え討ったのも、近江路の間道であった(続日本紀)。少し下って、南北朝の戦いに、後醍醐天皇が笠置へ潜幸になる途中、鷲峰山((じゅぶせん)に入られたが、やはり宇治田原を経て、南下されたのである(太平記)。それは正に歴史が交錯する地点であり、落人たちひそむには絶好の場所であった。本能寺の変に、徳川家康があわてて国へ帰った時も、ここを通ったといい、平治の乱の信西入道も、ここまで落ちのびて首を切られたし、織田信長に攻められた近江の佐々木氏も田原の奥へ逃げ込んだ。とある。この史実が一つでも狂っておれば日本歴史の推移に影響したことは確かなことであろう。特に、徳川家康の伊賀越えの話は、数日前に明智光秀の接待に信長の不興をかって更迭されて福知山に帰る途中に、老ノ坂を引き返して本能寺で信長を討つという乱行が起こった原因の一つであると言われているのだが、その乱行を知った家康の堺を遊覧中のこの判断がなければその立場が、如何なることになっていたか、想像するだけで面白く、司馬遼太郎の小説の材料にもなっている。
茶畑のなかに「禅定寺」と認められる鄙びた寺があった。一見、洛北大原の里にある「寂光院」の小じんまりした山門が石階の上にあるような錯覚に囚われる。ただ、瓦葺が悔しいが周辺の風景はそれに勝る。

そんな山門の先に茅葺きの屋根にアワビの貝殻を貼り付けた本堂が望まれた。
訪れる者のない静謐の庭に咲く八重の「桔梗」の紫が炎天下に清涼を誘う。
宝蔵庫に案内されて住職の説明を受ける。南山城と呼ばれている京都のこの辺りの寺々には観音寺の国宝の十一面観音をはじめ重要文化財の笠置寺・海住山寺本堂、奥の院・現行寺・岩船寺・寿宝寺とここ禅定寺の十一面観音の尊願を順次拝することができる、有難きところなのである。徐ろに開かれた宝蔵庫のなかに、一際、十一面観音立像の一躯が目にとまる。10世紀末藤原時代初期の寄木造漆箔で一応、重厚な印象を受ける。藤原時代の仏像といえば、定朝(じょうちょう?ー1057)の宇治平等院の本尊・木造阿弥陀仏如来坐像の国宝仏を想起するのだがあの煌びやかさがない。同じ十一面観音の話のなかで、大和の聖林寺、湖北の渡岸寺の国宝仏としては3躯しかない十一面観音の話になったときに旧国宝のこの仏像が重文に引き下げられたのを残念がり定朝の父親の作品であると説明されていた。なるほど、南都仏師の作であろう聖林寺と観音寺の国宝仏の神秘的で大陸的なものから「尊容満月の如し」といわれる定朝様式へと移る過渡期の作品であろうことが想像される。同じ南山城の加茂にある浄瑠璃寺の九品仏と似た素朴さが印象的であった。
禅定寺を辞して、草津へ。途中、禅定寺村への峠に「猿丸神社」があったので立ち寄る。
奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋は悲しき
猿丸太夫。蝉丸と並ぶ伝説的な人物の『小倉百人一首』に選ばれた、伝説的な和歌である。
この神社に立ち寄ったときに書いた折口信夫の面白い説を、白洲正子が前掲の『かくれ里』で紹介しているので再度拝借すれば、
猿丸は一人ではなく、諸国をめぐった吟遊詩人の集団で、神事を司ったと解かれているが、私に、もしつけ加えることがあるとすれば、逢坂山の蝉丸と同じように、峠の境の神(または坂の神〉に仕えた神人で、蝉はもっぱら音楽を受持ち、猿は物真似を業としたのではあるまいか。猿田彦、猿女の君、猿楽の芸能とも、遠いつながりがあったような気がする。なるほど、面白い説であり、森閑とした雰囲気が好い。峠の茶屋ならぬ宇治茶の販売所が一軒店を構えていたのだが、参拝の帰りにと思ったのだが、老夫婦が揃って午睡の最中であったので、叩き起こすのも不粋なりと、静かに幽邃の地をあとにする。
―今日のわが愛誦句
・
乱心のごとき真夏の蝶を見よ 阿波野青畝
―今日のわが駄作詠草
・ひたひたと何かに追われいるごとく
山寺の道貪婪なりき

524