初夏の川波の薫りがいたく恋しくなり、宇治に来ている。宇治橋の北詰を東に入ったところに「橘寺」がある。その境内には日本三古碑の一つと言われている「宇治橋断碑」が残っている。
浼浼(べんべん)たる横流、其の疾(はや)きこと箭(や)の如き・・・と認められる。宇治川に橋が掛けられたのが大化2年(646)で、大変な難工事であったろうことがその文言に隠されている。その時の記念碑だろう。1000年以上経って発見されたのがこの寺にあるということだ。宇治川の急流とこの橋の奪還を目指しての攻防の様子は『平家物語』の描写を通して普く知られているところであるが、現に、宇治橋上からその流水を見下しているとさほど急流を感じさせない。恐らく上流に天ケ瀬ダムが出来てからのことだろう。小学校の遠足に行ったころは、子供の目線ではあるが、そのあまりの急流に脅威を覚えた記憶が残っている。歴史好きの先生の、佐佐木、梶原の宇治川先陣争いの話に耳をそばだて聞き入ったものだ。
宇治といえば、『源氏物語』を想い起こす。
いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。 冒頭の「桐壺」の巻の有名な書き出しである。その箇所を京都ことばで訳したのが先年物故された中井和子さんである。谷崎潤一郎、与謝野晶子、村山りう、瀬戸内寂聴と「・・・源氏」と人口に膾炙された文学者の名訳があるが、この人が執念を燃焼させた『現代京ことば訳源氏物語』は京都人、紫式部が直(じか)に話しているようで、味わいのある愛読の書である。
どの天子さんの御代のことでござりましたやろか。女御(じょうご)や更衣(こうい)が大勢待っといやしたなかに、そないに重い身分の方ではござりまへんで、それはそれは時めいといやすお方がございました。はんなりした京ことばの響きが心地よい。
さて、『源氏物語』五十四帖のうち、後半の「橋姫」の巻のあとを宇治十帖と言って宇治が主題になっている。宇治市がこの十帖に因んだ「源氏物語宇治十帖遺蹟」を作っている。小説にある面影を巧に採り込んだ観光的宣伝ではあるが、『源氏物語』の世界が空想できて有難い。すなわち、@橋姫の古蹟―橋姫神社A椎本(しいがもと)之古蹟―彼方神社B総角(あげまき)之古蹟―宇治上神社北C早蕨(さわらび)之古蹟―宇治神社北隅D寄木(やどりぎ)之古蹟―平等院の南、槇尾山麓E東屋(あずまや)之古蹟―京阪宇治駅左横、観音石仏(鎌倉)安置F浮舟の古蹟―三室戸寺境内G蜻蛉(かげろう)之古跡―三室戸道のほとりH手習(てならい)之古蹟―京阪三室戸駅東I夢浮橋(ゆめのうきはし)之古蹟―宇治橋西詰。このように親切に「宇治十帖」の雰囲気を紹介してくれた道をたどって、三室戸寺の方向を目差す。
『源氏物語』の「宇治十帖」の「橋姫」では
秋も末の頃、四季にわりあててお勤めやす御念仏を、この川面では網代の波の音も、今の時節はひどう耳についてやかましうて静かでないさかい、というので、あの阿闇梨の住む寺の僧の堂にお移りやして、七日の間、おつとめやす。姫君たちは心細うて、所在なさも余計ひどう、物思いに沈んどいやした頃、中将の君は、長いこと伺わなんだと、お思いし申しやしたので、夜明けに間がおす有明の月のさし上る頃に出発なさり、ひっそりと、御供の人数も少のうて、姿をやつしておいでやした。宇治川のこちら側どすさかい、舟をわずらわすことものう、御馬ででござりました。山をわけて行くにつれて、霧で行く手がふさがって、道も分からぬ程、草深い野中にはいって行くと、ひどう荒々しう風が吹きつのり、ほろほろと落ち乱れる木の葉の露がかかるのも、ひどう冷(つべ)とうして、自分から求めて分け行った道に、きつうお濡れやした。こないな外歩きなども、めったにおしやさへんお気持ちとしては、心細うも興味深うもお思じいやすのでござりました。そんな雰囲気のある宇治の地を紫式部ならぬ中井和子さんの京ことばでのガイドで散策してたどりついたのが、三室戸寺である。ここが「浮舟」のゆかりの地として指定された古蹟ではあるが、平安貴族の高級別荘地であっただけにその面影は現在も随所に残されている。今を盛りの紫陽花の見事な群生を眺めていると王朝貴族の気分にさせてくれる。
―今日のわが愛誦句
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あぢさいのこの世の隅に追放され 平畑静塔
―今日のわが駄作詠草
・花のない園より花の園に入り
紅、紫、白そして無地

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