承前。宇治橋の上より川の上流を眺めている。右手には平等院。対岸左手は平安貴族の別荘があった山紫水明の地区。『源氏物語』「宇治十帖」の世界が想像できる。そして、下流に目をやれば、こんなにも風致の相違があるのかと思うほどの落差を感じる。ただ一か所、右手に目立った杜がある。莵道稚郎子(うじのわかいらつこ)の墓と伝承されているところがある。『日本書紀』によれば、応神天皇の薨去のあと、子の仁徳天皇と大山守命の兄弟の政争があり、兄たちの政争の板挟みになった莵道稚郎子は、仁徳天皇のために大山守命を騙して宇治川に殺害する。その後、仁徳天皇と皇位を譲り合ったのだが、争いを避けて、自ら宇治川に入水(じゅすい)して命を絶ったという悲劇の伝説が残されている。
謡曲に『浮舟』と源氏物語の宇治十帖の世界を典拠にした世阿弥の作品がある。二人の男に愛された「浮舟」の情念と苦悩が交錯する世界を描いている。ストーリーの概要は「ある日ある時、宇治の里に遣って来た僧の問いかけに、女は浮舟(うきふね)のことを語る。浮舟は光源氏の子、薫大将(かおるたいしょう)に愛され、宇治の里に隠れ住んでいた。そこに匂宮(においのみや)が、忍んで来て、浮舟を宇治川に誘い出して深い契りを結ぶ。浮舟は薫に申し訳ないことと思いながらも、匂宮のことが忘れられず、悩みぬき死にたいと嘆いたすえに行方不明になる。そう語った女は、小野の里に住む者と名乗り消える。そして、僧は小野の里を訪れ、浮舟を弔うと、浮舟の亡霊が現われ、様々に思い悩んだが、弔いを受けて執心が晴れたと感謝して消える」というのだが、「宇治十帖」、「浮舟」では、浮舟と薫の関係。匂宮狂乱。浮舟失踪。浮舟流離。浮舟出家と紫式部の筆は冴える。
白洲正子は『巡礼の旅』で莵道稚郎子は
「父の帝ばかりでなく、一般庶民にも、よほど愛された方なのだろう。そういう性格が、皇子を死に追いやったともいえるが、何かそこには補陀洛の信仰と、あい通じるものが感じられる。自分の抱いた信念のために、死ぬことも辞さないという捨身の思想は、言葉にはならなくても、仏教以前からあったものに違いない。補陀洛ばかりでなく、それは源氏物語の浮舟にもつながっているといえよう。二人の男に愛されて、死を選んだ原型は、真間(まま)の手児奈(てこな)に溯(さかのぼらなくてはなるまいが、男にとっての思想や信念は、女にとって、いつも男の姿を仮りて現れる。入水したから似ているのではなく、自分に忠実だった点が似ているのだ。」と、いみじくもその立場を喝破している。

夜もすがら月を三室戸わけゆけば宇治の川瀬に立つは白波
二人の兄の政争の板挟みになった莵道稚郎子、二人の男の愛に苦悩した浮舟の人生を考えながら、宇治川の川波は今も流れている。西国三十三蕃霊場札所の「三室戸寺」の御詠歌が川風に伝わって来る。
―今日のわが愛誦句
・月と日は男の手なる夏書(げがき)かな 太祇
―今日のわが駄作詠草
・真乙女の顔の白さよ紅つけず
衣なびかせ川に向かへり

三室戸寺にて

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