泉北ニュータウンは千里ニュータウンと比肩される大阪の大規模都市計画市街地として昭和30〜40年代にかけて高度経済成長期の住宅需要に応えるために整備された新しい街である。大阪市の中心部に住み続けている者にとっては、一本の鉄道の敷設開通によって田園地帯が急速に変貌して行く姿を傍観していたものだ。その街には、古来からの大阪人とは異なった地方からの新人類の住民参入でいささか違和感を覚えて来たかの感慨を拭い去ることが出来なかったのだが、いまそのニュータウンの地を車で駆け抜けていると、大阪人とは違う雰囲気があるような気になってくる。
いまも変わらない、百舌古墳群を過ぎると、田園地帯が開発された、団地群の屹立が続いて行く。所謂、泉北ニュータウンの地域に差しかかる。堺市南区片蔵と表示板のあるところに、「国宝櫻井神社」と大きな案内表示が目にとまる。おや、こんな所に国宝の神社があるとは意外な発見をする。早速、立ち寄ってみることにする。
古墳のような古木に覆われた丘陵にその神社が鎮座していた。社務所で戴いた朱印には、「上神谷八幡宮堺市片蔵鎮座櫻井神社」と記帳されていた。問えば 「拝殿」が国宝建造物とのこと。「上神谷」を(にわだに)と読むらしく、和泉国大鳥郡上神郷の総鎮守であるとのこと。天正5年(1577)織田信長の紀州根来寺征伐の折、その兵火にかかり、神宝古記録を焼失、神領も没収されたが、鎌倉時代創建の拝殿だけが何故か残ったという。その拝殿が国宝の指定を受けているとのことである。

国宝櫻井神社拝殿
櫻井神社の拝殿は鎌倉時代の建築物と言われても、同時代に出来た奈良東大寺の南大門の壮大さを知る者にとっては雲泥といったら礼を失するかも知れないのだが、切妻造、本瓦葺き。寺院建築風の簡素な意匠などに特異性のある拝殿であるということらしい。成る程、見たことのない拝殿に神社らしくない形式に首を傾げる。『日本名宝事典』の説明によれば、「柱間は桁行(正面)5間、梁間(側面)3間。桁行5間のうち中央の間を馬道(めどう、通路の意)とし、左右を部屋とする。このような形式の拝殿を割拝殿という。ただし、これは当初からの形式ではなく、建立当初は全面に床を張り、建物周囲には縁をめぐらせていたことが痕跡からわかる。正面は馬道部分を除いて桟唐戸(さんからと)を吊り、側面は二重虹梁蟇股(にじゅうこうりょうかえるまた)[とする。内部は天井を張らず、梁、垂木などの構造材をそのまま見せた「化粧屋根裏」とする。神社の拝殿は建築年代の古いものが少なく、桜井神社拝殿は鎌倉時代にさかのぼる例として貴重である。」ということらしい。
この「拝殿」は、大正6年(1917年)に古社寺保存法に基づく特別保護建造物に指定され、昭和28年(1953年)に文化財保護法に基づく国宝に指定されている。なお、背面の向拝部分は国宝指定外である。説明を加えると、「梁」とは、柱と柱とを、棟と直交方向につなぐ水平材。中央部を高く、両端をわずかに湾曲させた形状のものを「虹梁」という。蟇股は、梁などの上に置かれる構造材で、カエルが脚を広げたような形状からその名がある。という。
帰路、大阪市内に入り、あべの筋を北上、ふと、ここを通るときいつも目に止まっていた戦前からの日本家屋の豪邸が銀行の管理物件としてあった。塀越しの見越しの老松に絡む、凌霽花の赤黄の色を見て、中村草田男が詠んだ
凌霽花は妻恋ふ真昼のシャンデリアの近代的な感傷を思い出した。目に馴染んだ古い日本建築の末路の姿に一抹の寂しさが走る。
―今日のわが愛誦句
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青々と夕空澄みて残暑かな 日野草城
―今日のわが駄作詠草
・凌霽(のうぜん)の黄赤の花を好まねど
移りゆく道の筋に咲きいる

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