武烈天皇(ぶれつてんのう、(489ー 507)。名は、小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)・小泊瀬稚鷦鷯天皇(−のすめらみこと)。『日本書紀』によれば即位の翌年から暴虐大君への道を、まっしぐらに進む事になっている。すなわち、2年9月、妊婦の腹を裂いて、その赤子を見る。3年10月、人の生爪を剥いで、芋を掘らせた。4年4月、人の頭髪を抜いて、木に登らせ、その木を切倒して、落として殺した。5年6月、人を池の樋に伏せ入れ、外に流れ出てきた所を、三刃の矛で刺し殺す。7年2月、人を木に登らせ、弓で射落とす。8年3月、女を裸にして、馬と交接させる。その陰部を見て、潤っている者は殺し、濡れていない者は、没して官婢とした。とその暴虐ぶりが列挙されている。「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」とある。作為があり過ぎる記述ではないか。そして、後嗣なく崩御。ここで万世一系の皇統が絶えてしまったのでは、と思う節もあるようだ。
『日本書紀』によれば、506年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため大連(おおむらじ)の大伴金村らは越前に赴いて、武烈天皇とは血縁の薄い男大迹王をヤマト王権の大王に推戴した。これを承諾した王は、翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とした、とある。恐らくは、血縁関係の希薄な継体(男大迹おおど)の即位を正当化する意図で武烈天皇を暴君に仕立てたということになっているのだが、応神天皇の5世の孫と言っても皇統とは何の所縁もない人物との説もある。(直木孝次郎)。斯かる人物が507年河内国、樟葉で即位、526年大和国、磐余(いわれ)の玉穗宮(たまほのみや)に遷都している。つまり、20年余りの間、大和に入ることが出来なかったのである。山城国、筒城(つつき)、弟国(おとくに)などをうろうろしていたことになっている。大和入りに抵抗したのは、蘇我、葛城、平群氏。継体側は大伴、物部、和珥(わに)、阿倍氏などの対立の構図があったと言われる。
そして、武列の父、仁賢の娘手白香皇女と結びついて出来た子が欽明(きんめい)である。しかし、この欽明の前に、安閑(あんかん)・宣化(せんか)と二人の天皇がいる。継体が大和に入る前に娶った尾張連草香(くさか)の娘、目子媛(めのこひめ)に産ませた勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)と檜隈高田皇子(ひのくまのたかだのみこ)の二人の子供がいた。これが安閑・宣化になる。韓流ドラマにもある『百済本記』に531年に新羅が加羅諸国の安羅(あら)に軍をすすめ、高麗の安王(あんこきし)が殺されたことが記されたあとに「日本の天皇、皇太子、皇子、すべて死せりと聞く」とある。欽明が即位するまで継体は生きていて、継体が死ぬと同時に、安閑・宣化(大王位についた可能性は少ないといわれる)も殺された可能性が強いと言われている。そんな、謎を秘めた継体王朝ではある。
最近、継体天皇陵はこれではないかと推定された高槻の今城(いましろ)塚古墳に立ち寄った。
墳丘の長さ190メートル、二重の濠がめぐっており、内濠、外濠を含めた兆域(ちょういき)は340メートル×350メートルの釣鐘状の区画を呈し、淀川流域では最大規模の墳墓と言われるだけあって立派な古墳である。
その傍に「今城塚古代歴史館」がある。今城古墳から出土した埴輪が展示されていた。しかし、宮内庁は今城塚古墳の陵墓参考地指定については現在も難色を示しており、今城塚古墳から1.3キロメートル西にある大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を継体天皇陵に治定している。太田茶臼山古墳の築造は5世紀中葉と考えられており、継体天皇が没したとされる年代よりも古い時代の古墳と考えられる。先に訪れて来たハニワ工場で作られた埴輪が今城古墳から出土したものであるとされている。
さて、古代史に関しては諸説紛々で何が真実であるのか、福井市の足羽山頂の継体天皇様に聞いてみたいものだ。
―今日のわが愛誦句
・
塚も動けわが泣く声は秋の風 芭蕉
―今日のわが駄作詠草
・菊の香や真乙女の前とうしろより
気が付けば嗚呼埴輪なりけり

今城塚古墳(推定、継体天皇陵)

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