東大阪市に残る鴻池新田会所(こうのいけしんでんかいしょ)に来ている。
国の史跡に指定され、会所敷地内の「本屋」「屋敷蔵」「米蔵」「道具蔵」「文書蔵」などの重要文化財指定の建造物が見事に保存管理されている。流石に財閥鴻池家の背景があってこその文化遺産といえよう。
この地に来る車中から周辺地区を眺めていると、かつてこの地一帯が、レンコン畑といわれた蓮池がいっぱい存在していて、はるか生駒山麓まで見渡すことができた風景が展開していたことを思い出している。思えば、太古から奈良時代あたりまで「河内湾」と呼ばれた海が広がっていたという。その後、海面の低下や淀川・大和川水系から運ばれた土砂によって河内湾岸は干潟に発達。「河内潟」となり、さらに、上町台地の先に「長柄砂州(ながらさす)が発達し、河内平野の水系の出口が閉ざされて「河内湖」ができたとされている。先ほどの台風12、15号でできた堰とめ湖のようなことになってしまった、ということだろう。『古事記』に
久佐迦江(くさかえ)の 入江の蓮(はちす) 花蓮 身の盛り人 羨(とも)しきろかもや『万葉集』にも
草香江(くさかえ)の 入江にあさる 葦鶴(あしつる)のあなたづたづし 友無しにしての古歌から想像すると、現在の生駒山麓にある日下(くさか)あたりが河内湖の入江であったことが示されていて、蓮の花が咲き、一帯が葦原であった湿原地帯であったことが想像される。河内という国名は旧大和川の複雑な流れに由来したものとされているように、その地域に住む人々の生活は水との戦いの繰り返しであったといわれる。
徳川幕府は度重なる洪水の被害を解決しようとして、川筋、池沼の周囲に堤防を築き、川さらえを行うなどの治水事業をおこなった。そのためには町人の力を借りなければならず、川筋の付け替えでできた土地を新田として活用することになった。宝永元年(1704)大坂京橋の土木請負人大和屋六兵衛・中垣内村長兵衛が幕府から落札した新開地開発の権利を3代目鴻池善衛門宗利が譲り受けた。そして、宗利は代官万年長十郎に対して、来月10日までに「地代金」を支払うこと。年貢は遅れることなく上納、開発を怠れば、如何なる罪でも受けること、井路・堤・道等の建設費用は鴻池家が負担、下作人が禁止されているキリスト教などの信仰を調査する。もし幕府が新田を召し上げても異議を言わないと記した書状を差し出して新田運営に着手した。並々ならぬ決意がなければ出来ない事業であるが、この会所を見ればその成果が頷ける。
東日本大震災の津波で農産地の被害の壊滅状態を目の当たりにして半年以上が経った。「東北コットンプロジェクト」と呼ばれる活動が注目をあびている。大震災からの復興を目指すためには、「農業再生」「雇用創出」「新産業」を目的に綿(コットン)の生産を開始するのも一つの方法であるとして立ち上げられたと聞く。このプロジェクトとは、被災地の農業生産者が綿を栽培し、アパレル関連企業が紡績・商品化・販売を行うことで復興を支援する共同プロジェクトだという。原料である綿の栽培から綿製品の販売までの一連の工程をプロジェクト参加各社が「東北コットンプロジェクト」ブランドで統一して活動を行うという。なぜ綿の栽培かというと、綿は@ 農業再生するには「津波による瓦礫、並びに用排水路や排水施設など稲作のインフラが破壊され、現時点で稲作が行えないため」A 塩害対策「津波が農地を浸水したため農地土壌の塩分濃度が上がり塩害が懸念されるが、綿は耐塩性が高いためB新たな農業雇用創出「稲作が行えない被災農家が、速やかに新たな農業雇用を創出するため」という。
鴻池新田会所の見学で、庭に作られた綿の花を見た。その昔、新田が開発された当初、この土地が低湿地であったために稲作にむいておらず、その代わりに順応性の高い綿を育てた。それを原料とする「河内木綿」と呼ばれた木綿織の布製品などの産業を編み出し、米だけに頼らない生産活動で過酷な年貢の取り立てを補完した鴻池家の農業経営の一端を覗き見ることが出来る。いま、実験されようとしている、幕府=政府に任せられないという東北プロジェクトの動きを注目したい。
―今日のわが愛誦句
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酒焼けの頬をつまぐる秋日和 石原八束
―今日のわが駄句
・そのむかし湿地に咲きし蓮の花
綿作りして富なせるとや

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