強く結びついて離れがたい関係を
「漆膠(しっこう)の契り」という。漆(うるし)と膠(にかわ)が一緒になると粘着力は抜群になるところから、男女や夫婦の離れられない関係や深く言い交わしたことをいうことばである。
今は昔。昭和20年(1945)8月15日終戦を迎えた大阪は焼け野原が延々と続いてていた。その年の大阪大空襲で焦土になったままもう空襲がないという安心感よりも、虚脱感の方が勝っていたのかもしれない。ナンバから出ている南海電車の高架は今も変わらずにある。が、「今宮戎神社」は空襲であとかたもなく廃墟となっていた。神社の北側は高津入船川が流れ南海電車の高架を潜って西にすぐ北に流れて行った。流れると言うより泥水が滞留していた。その南海高架の東側は戦後復興のバラック住宅の無差別に立ち並ぶ密集地帯であった。木片、木屑さえあれば人間は、いとも簡単に雨露をしのぐ棲み家を造れる動物であることがよく分かった。わが両親も3人の子を抱え、食べるための糧秣稼ぎに日々奮闘していた。食料品を扱う小商いの店ではあったが、配給物資を取り扱っていたので、その地域との住人との接触も沢山あったようだ。敗戦により敗者と勝者の立場が一転してしまった。その中に中国人と一緒になった日本女性がいた。少年の目にも当時の日本人女性としては大柄の美女であった。それに対して夫は浙江省(せっこうしょう)出身の小男であった。俗に蚤の夫婦と呼ばれる類のカップルであった。人も羨む仲の良い夫婦で、男はアベノ橋上で屋台で鮨を商い、女は千日前の「大劇」裏でバー(まだスナックという言葉がなかった)を開いていた。
しかし、結末が近付いていた。昭和25年(1950)6月25日の朝鮮動乱の勃発で立場は一変した。日本経済に特需景気が訪れ、妻はそのバラックから姿を消してしまう。夫は、路上での屋台場所の取締りが厳しくなり、最後は長堀川に取り残された牡蠣船で商売していた。
『経済白書』に最早、戦後ではないと書かれた頃である。
焦土の大阪ミナミ。左に南海電車の線路と高島屋。右下、松坂屋。
「田蓑神社」の境内に謡曲
『芦刈』の能書き板がある。そこには
「昔、難波に仲の良い夫婦がいました。生活苦のため相談をして夫と妻は別々に働きに出ることにしました。夫は芦を売り妻は都へ奉公にでて、やがて妻は優雅に暮らす身分になりました。妻は夫が恋しくなり探すうちに、はからずも路上でめぐり会いますが夫はみすぼらしい身を恥じて隠れてしまう。二人は夫婦の縁は貧富などによって遮られるものではないという意味の和歌を詠み交わすうちに心も通い合い、目出度く元通りの夫婦仲良く末永く暮したという」
平安時代前期の
『大和物語』を典拠に世阿弥が改作した謡曲
『芦刈』の筋書きである。因みに、夫婦が交わした相聞歌とは、
夫、左衛門
「君なくて、あしかりけりと思ふにも、いとど難波の浦は住み憂き」
(君がいなくなって、悪いことをした、別離などしなければよかったと思うにつけても、芦を刈って暮らす、難波の浦は住みづらいことだ)
妻
「あしからじ、よからんとてぞ別れにし、なにか難波の浦は住み憂き」
(良かれと思ったからこそ、私もあなたとお別れしたのです。難波の浦が住みづらいなどと、おっしゃってはいけません)
話をもとに戻すと、寺田町の医院の娘であった妻は、杳(よう)として、行方知らず、夫は交通事故に遭い、一命を取り留めたが傷害者になったと聞く。歳月は人を待たず。風の便りで、一緒に生きていることが耳に入った。
11月22日「いい夫婦」の語呂合わせが眩しい日である。
―今日のわが愛誦句
・
秋の夜の人懐しき焼林檎 永井龍男
―今日のわが駄作詠草
・芥子(からし)臭きサラダを食べて鼻つまむ
秋は冬へと近づきにける

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