終日、雨が降り続いている。昼の時間が一年中で最も長い日といわれる夏至ではあるが、銀鼠色の世界が街を支配している。若いころ、いささかの薫陶をうけた水原秋桜子の
『馬酔木』で知った相生垣瓜人の句に、
夏至もまた梅雨の隠微に倣うなり
という佳句があるのを想い出した。夏至にあたるこの時期は常に梅雨の最中になっていて、カラッとした日であれば、昼の長さが実感できるのだが、じめじめした雨が降り続けば隠微(いんび=表面には現れにくい微妙なこと、隠されていて、かすかにしかうかがえないさま)という曖昧糢糊な気分が大きく支配するように感じる。
じめじめとした心の憂さを少しでも和らげようと、降り続く雨音と水の匂いを愉しみながら
『閑吟集』の世界を弄(まさぐ)っている。この歌謡の集まりが出来たのは室町時代のことで、国を支配していた足利将軍家にも、末期的症状が出始めていたころである。諸国の大名の力が大きくなり、幕府の威令が効かなくなり、戦国乱世の時代が近付いて来た様相が現われてきた時代であった。
ただ人は情(なさけ)あれ 夢の夢の夢の 昨日は今日の古へ 今日は明日の昔
よしや辛(つら)かれ なかなかに 人の情は身の仇(あだ)よなう
憂(うれい)や辛やなう 情は身の仇とな
情ならでは頼まず 身は数ならず
情は人の為(ため)ならず よしなき人に馴れ初めて 出でし都も 偲ばれぬ程になりにける 偲ばれぬ程になりにける
ただ人には 馴れまじものぢゃ 馴れての後に 離るるるるるるるるが 大事ぢやるもの
人の情は「夢の夢の夢の」というはかない生の感覚のなかで、ほだされやすく、「よしや辛かでなかなかに人の情は身の仇やなう」と詠嘆する。「情は人の為ならず」と、情をかけるのは人のためではない。自分にとっても必要があるからだという考え方も、恋の場面では、その情に流されて、よしなき人に馴れ初め、都を飛び出したまま、都のことを偲びきれなくなるまで、田舎に埋もれてしまうという、いろいろな人生が想像できる。そして、「ただ人には、馴れまじものじゃ」ということになる。情は人を束縛し、そして人は、愛の束縛が欲しいのだと、今風にいえば、自由な形式の民衆的な小叙事詩、あるいは物語詩とでもいうバラードが心に響いてくる。このような苦しい情の歌が続いている。
さて、現今の日本のことである。与野党の談合で、消費税の増税が勧められ、脱原発を押し退けて、原発の再稼働に血道をあげる。そのようなことが先行するのは国民に対する背信行為であると、与党を分裂させようとする勢力の激突を横目にしながら、ジレンマが渦巻く国情である。
来し方より 今の世までも 絶えせぬものは 恋といへる曲者 げに恋は曲者 曲者かな身はさらさらさら さらさらさら さらさらさら 更に恋こそ寝られぬ
「曲者」とは「ひとくせあるもの」「ひとすじなわではいかぬもの」で、ここでは自分でどうにも制御出来ない「恋」の心の妖しさを、曲者と呼んでいるところが、いかにも恋ごころを観察しなれた風流心を感じさせる。
その「曲者」の集団である政治家に置き換えながら、現代の
『閑吟集』を想定すれば面白いのではと思うのである。
隠微な雨が降り続いていて昼夜の境目が定かではない夏至の日となった。
―今日のわが愛誦短歌
・
東京に捨てて来にけるわが傘は
捨て続けをらむ大東京を 伊藤一彦
―今日のわが駄句
・大阪の真中に住み夏至となる
降る音や耳も酸うなる梅の雨 芭蕉

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