梅雨が近付いているのだろう。湿った空気がこれから行く先の天候が如何なるかが気掛りになる。その行く先はといえば、唐突な思い付きで、旧東海道五十三次の宿場町の土山である。
「坂はてるてる鈴鹿はくもる間(あい)の土山雨が降る」と
『鈴鹿馬子唄』で知られた気象変化の激しい地であるからだ。何故、土山なのかというと、たまたま、今、読み返している松本清張の
『或る「小倉日記」伝』で森鴎外の
『小倉日記』のことが気になったからである。
森鴎外(1862−1922)
まず、その
『或る「小倉日記」伝』のことであるが、冒頭の書き出しは、
「昭和十五年の秋のある日、詩人K・Mは未知の男から一通の封書をうけとった。差出人は、小倉市博労町28田上耕作とあった。(中略)が、この手紙の主は詩や小説の原稿をみてくれというのではなかった。文章を要約すると、自分は小倉に居住している上から、目下小倉時代の森鴎外の事蹟を調べている。別紙の草稿は、その調査の一部だが、このようなものが価値あるものかどうか、先生にみて頂きたい、というのであった。田上という男は当てずっぽうに手紙を出したのではなく、kと鴎外の関係を知っての上のことらしかった。」とある。生まれつき片足で言語障害者である田上耕作はそのハンディに強いコンプレックスを持ちながら育った。が、一方では、文学好きで探求心の強い青年であった。彼は障害者のためにまともな職業に就けず、母ふじと二人は極貧の生活を送っていたが、ふじだけは息子の聡明さに気づいていた。まともな仕事に就けない耕作であったが、ある時、地元の資産家である白川氏の大量の蔵書の目録作りをする仕事に就くことになった。そして、蔵書整理をしているうちに、森鴎外が小倉に赴任していた3年間の日記が紛失していることを知った。そこで耕作は、小倉での鴎外の足跡を調べ、所縁の人たちを訪ね歩き、失われた
『小倉日記』の空白を埋めることを自分の使命と考え、この研究に人生を賭けることを決意した。耕作は懸命に調査を行うが、鴎外死後すでに40年も経過しており、10年を費やしてもさしたる成果は得られず、やがて耕作の身に病魔と貧困という二重の苦しみに襲われて無念のまま志を遂げずに亡くなる。然しながら、耕作の死後間もなく散逸していた
『小倉日記』が発見される。松本清張は
「この事実を知らずに死んだのは、不幸か幸福かわからない」と結んでいる。それは、耕作の生涯が決して空しく徒労であったというのではなく、鴎外自筆の
『小倉日記』と、耕作が「周囲の人々から見た小倉時代の鴎外」とを比較し精査することができる立派なものであったからだ、と言いたかったのだろう。
さて、森鴎外のことに話を移す。明治33年(1900)3月2日、彼は、前年、小倉の第十二師団軍医部長に左遷されていたのだが、陸軍省の会議出席で上京の途次、土山に立ち寄るかとが出来た。
土山 常明寺山門
『小倉日記』には、
「・・・二日。天陰れり。午前六時大阪に至り、車を換(か)ふ。九時草津に至り、又車を換(か)ふ。十時三雲に至り、車を下る。雨中人力車を傭ひて出づ。午時土山常明寺に至る。即ち近江国甲賀郡土山村字南土山二百五十番地なり。・・・」と記している。そして、住職に会い、「他所人過去帳」のなかから
「萬延二年辛酉十一月七日卒義禅玄忠信士といふものあり。傍らに註して曰く。石州津和野家中森白仙。中町井筒屋金左衛門にて病死。医師有岡左休。請人同臣斎藤茂兵衛、城島太郎。北本陣奥證とあり。是吾王父なり。」と、記載されたのを見付けだす。この過去帳の記載で祖父が病死したことを知った鴎外は、その墓があるのかと尋ねると、
「門前より一町ばかり、田園つきて、まさに河岸に下らんとするところに、古塋域(えいいき)あり。その有縁の墓碑のごときは、皆すでに境内に遷せり。なお無縁の古碑二三せるものあり。」との応えである。さらに、
「・・・碑の四辺、荒蕪、最も甚だしく、処々に人骨の暴露せるを見る。また、竹竿をたてて、上に髑髏(どくろ)を懸けるものあり。碑のなお存するは、実に望外の喜なり。・・・」とある。無縁墓地に眠る祖父に驚いた鴎外は、直ちに祖父の墓を常明寺の境内に移すことを折衝する。そのような経緯が
『小倉日記』に書かれている。要するに、土地に無縁の墓は河岸に寄せ集められていたのであろう。
旧東海道筋の土山宿を散策しながら、鴎外が110年前訪れた常明寺の森家墓前にたどり着く。すでに子孫により津和野の永明寺に墓石が移行されたので、此処は墓所ではないということらしい。ただ石碑のみ留めるのみであった。だが、土に化した骨までは持って行かれなかったであろう。やはり此処は、鴎外祖父白仙、白仙の傍への埋葬を遺言した祖母於清(きよ)、そして、両親と一緒にと希望した鴎外の母峰子(みね)の三昧(さんまい)の地に相違あるまい。宿場なるがゆえの縁が其処にあったのだろう。
さみだれに鳰(にお)のうき巣を見にゆかむ
その昔、常明寺に立ち寄った時に詠んだ芭蕉の句碑が境内に建つ。
―今日のわが愛誦短歌
・
今しばし麦うごかしてゐる風を
追憶を吹く風とおもひし 佐藤佐太郎
―今日のわが駄句
・伊賀甲賀面白きかな麦の秋

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