昨晩は、思いもかけぬ泥酔にはまり込んでいたようだ。こころ覚えがないことはないのだが、言ったことの枝葉末節を思い出せと言われても土台無理な話である。夜の大理石の上を乱歩したのだろうか、知らず知らずのうちに暗がりをさ迷い、家にたどり着いたようだ。風呂を浴び、ビールと日本酒を倶に夜食をすませたところまでは、正常であったような気がする。否、すでに正常ではなかったのだろう。金沢の友人の父親の葬儀に一泊で出掛け、帰るや三田に出掛け、そのまま娘の家に一泊、娘の家族と実家の岡山に行き、泊まった妻がまだ帰宅していなかったことに気付かずそのまま寝てしまっていた。朝目覚めると、3日分溜っていたNKK朝ドラの
『梅ちゃん先生』を朝食をとりながら妻と一緒に観た。その後ナンバに買い物に行くと言って出掛けて行った。昼食の時間になっても帰って来ないのでどうしたのかと思っていると、ナンバからは一旦帰り、昼前から金沢に行って今夜は帰らないとのことである。
思えば、昨夜、酔っていたので何かを失言したのではと、急に前夜からの行動の思考回路をたどったのだが思いあたることが見当たらない。酔いにかまけてはいるが、健忘症が発症しているのではと、自分自身に冗談を言いながら自らを慰めてみる。
新涼という、猛暑に疲れた頭をそっと慰めてくれる風を求めて、午後、散策に出掛ける。謡曲
『松虫』を思い出して不意に阿倍野区にある「松虫塚」に足が向かう。酒飲みが、その友である若者が松虫の声に引かれて野辺に死んだと言って慕い、悲しんだ話を金春禅竹の作品化した名作である。この「松虫塚」にはいろいろと伝説があるようだが、この酒飲みの哀れさを物語った話は切なく、辛いのである。
松虫通といえば、伊東静雄の文学碑がある。伊東静雄の詩集
『春のいそぎ』 から 「百千の」が選ばれて刻まれていた。
百千の葉草もみぢし 野の勁き琴は 鳴り出づ
哀しみの 熟れゆくさまは 酸き木の實
甘くかもされて 照るに似たらん
われ秋の太陽に謝す
新涼の風の匂いを嗅ぎながら、じっと伊東静雄の詩句を読んでいると秋近しと思う。「哀しみの熟れゆくさまは」 という詩句にひかれてしまう。 「熟れ」 てしまった詩人の 「哀しみ」 とは何だったのであろうか。哀しみが 「熟れ」 て行くことは、決して哀しみが 「癒える」 ことと同じではなく、それは甘く醸されて、いっそう深い哀しみとなったはずであるのだと昨夜からの空白の時間を考えながら、「謝す」のことばの深い響きが胸に突き刺さってくる。
さて、妻のことではあるが、句会をかねて友人の傍にいてあげたかっただけだということが解って内心ほっとした次第ではあるのだが。
―今日のわが愛誦短歌
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在る如く花のけはひを身に尋めて
おもひゑがけばあへぐに似たり 五島美代子
―今日のわが駄句
・新涼や酔いざめのあと懐かしむ
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