夜来からの篠つく雨が昼前にあがったので、外に出まいと思っていた心が変って近場ならと車を出す。今年、NHKで放映されている
『平清盛』を毎日曜日夜に拝見するのが愉しみにしている。平家の頭領、平清盛の一挙手一投足を、源頼朝によって語られて行くという少々荒唐無稽な展開だが、従来の源平盛衰の視点にはなかったところが随所にあり面白いドラマになっているようだ。ふとその頼朝の故地でもある、河内源氏のことを考えてみたくなったので、羽曳野市壷井にある「壷井八幡宮」を訪れてみようと思いついた。大和の飛鳥を遠飛鳥(とおつあすか)と呼ぶのに対して、此処、上ノ太子(かみのたいし)、駒ケ谷、古市にかけての古称は近飛鳥(ちかつあすか)と呼ばれていたところである。いわゆる、「王陵の谷」といわれ、蘇我氏にかかわりのある四天皇陵(敏達、用明、推古、孝徳)をはじめ聖徳太子廟など30基あまりの古墳があり、磯長谷(しながたに)古墳群といわれている日本歴史の謎多き不可思議な土地である。そして、意外なことにその地域のなかに河内源氏と呼ばれた「源氏三代」の墓があると考えてみると興味深いことである。
一般的には、平氏は桓武天皇、源氏は清和天皇の流れがあるとされている。この河内源氏も清和天皇の子孫で源姓を名乗り、第六皇子の貞純(さだすみ)親王の長男である源経基が清和源氏の祖となりその子満仲が藤原氏に協力して勢力をのばして摂津守になり、摂津国多田荘を根拠として、多田源氏を名乗ったということであるらしい。昔、「多田」という漫才好きのご仁があり昵懇にしていたことを唐突に思い出してしまった。彼は、たびたび、漫才の台本を書いて、民放のラジオ番組の漫才コンクールを総なめにしたのだが、彼から聞いた話で、当時、淡路島から同じように父親に連れられて番組に出演していた、子どものころの上沼姉妹と意気投合して、「おっちゃんの名前は何と言うの?」と聞いてきたので「タダのまんじゅうだ」というと、「頂戴よ!」と半畳を入れてきたのには、いたく感心したと、子どものころの上沼恵美子を認めていたことをよく話していた。彼にはわが結婚披露宴の司会をお願いしたのだが、自己紹介のとき「タダ(=無料)」のまんじゅう」の連発で会場を爆笑させてくれた。
脱線してしまったが、その多田満仲の長男が大江山の鬼退治で渡邊綱、坂田金時と名を馳せた源頼光なのである。そして、その弟の頼信が河内源氏の祖となり、頼義、義家(八幡太郎)、義親、為義、義朝、頼朝と続いたのだが、源平盛衰の有為転変の歴史で分かるように両家の主流は滅んでしまった。
そんなことを「壷井八幡宮」の宮司と話していると、私の姓は壷井といって、れっきとした清和源氏の末裔であるという。「このお宮の石段の下に井泉があるでしょう。」それは、奥州征伐の折、源頼義、義家父子の軍勢が飲料水に苦しんだ。そのときに頼義は石清水八幡を祈り、弓で岸壁をつくと、忽ちうそのように清水が湧きでて兵は喉を潤し勇気百倍、元気になって味方は勝利したと伝えられている。そして、凱旋の際に、このこの清水を壷に入れて持ち帰り、井戸を掘り、その底に壷を埋めたので壷井水と称し、ここの地名を壷井と改称したそうだ。最近までこの地区の飲料水として利用されていたという。
境内には樹齢千年という大楠の木もあり、整備清掃された源氏の故地に相応しい神域であった。宮司から薮蚊に注意するよう教えられ、歩いてもほど遠からぬところに「源氏三代」の塋域を参拝した。其処では彼岸花がひっそりと迎えてくれた。その花言葉は「悲しい思い出、想うはあなた一人、また会う日を楽しみに」である。
―今日のわが愛誦短歌
・
てのひらのうすき水脈(みを)より夏果る
日向(ひなた)の村の草のひとかた 山中智恵子
―今日のわが駄句
・むらさきに秋きらめくか武士の墓

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