「世界へ羽ばたくキリシタン遺産」と銘打った催しが「茨木市立遺物史料館」を中心に開催されていることを知った。以前より隠れキリシタンに興味を持っていたので、出掛けようと思い立つ。
天文18年(1549)にイエズス会に属するスペイン人伴天連(バテレン)フランシスコ・ザビエル(1506−1552)が、鹿児島の坊津に上陸し、キリスト教が日本に伝わって、全国にその信仰が伝わって行ったことは教科書で習ったことである。
そして、ゴアで日本に宣教へ向かう直前のフランシスコ・ザビエルに出会ったルイス・フロイス(1532−1597)は、永禄6年(1563)、31歳のとき、横瀬浦(現在の長崎県西海市北部の港)に上陸して念願だった日本での布教活動を開始した。日本語を学んだ後、翌年末には、平戸から京都入りを果たした。そして、永禄12年(1569)「天下布武」を目差していた革命児織田信長と建設中の二条城の現場で初対面した。信長が当時の仏教界のあり方に不平不満であったこともあり、フロイスはその信任を獲得して畿内での布教を許可された。
そのフロイスによって書かれた
『日本史』に高山飛騨守、右近親子が登場している。かつての茨木の高山右近の領地であった千提寺(せんだいじ)・下音羽地区から発見されたキリシタン遺物を見る前に、高山右近の生誕の地である、大阪府下豊能町の高山地区を訪れた。新御堂筋(423号)を北上、箕面グリーンロードトンネルの手前を左折し、府道43号線へ入り箕面滝を下方に眺めながらさらに府道4号線のほうに左折して山中深く踏み込んで行くと高山の郷に入ってくる。そこは先日降った雪が残る秘境である。そこで右近の父、飛騨守が城を構え、右近が生れたのがザビエルが日本に来て3年後のことである。右近は戦国大名として活躍し、高槻城主の時にキリシタン大名としてその土地を治め、領民2400人以上の受洗者があったことが記録されている。
高山城址
高山城址、高札場址、マリヤの墓など、キリシタンに所縁があった当時の土地柄が偲ばれる。特に、高山右近の妻の母、高山マリアの墓とも言い伝えられている墓を含め4基の墓があり、江戸幕府のキリシタン追放令によりこの村に最後まで残された2軒のキリシタンの夫婦の墓と言われているのだが前出の『日本史』に
「(前略)そこには比丘尼(ビクニ)が大勢いた。そのうちの幾人かは、クロダ殿(キリシタンとなっていた在地豪族と考えられているが、余野蔵人(くらんど・くろーど)の事と推定されている)の奥方(マリア)の親戚であった。奥方は、その家柄からいえば、まことに高貴な人で、池田殿(当主は勝正?)と称して、その国(摂津)の最大の殿の一人の正当な娘であった。池田殿の家は天下に高名であり、必要とあればいつでも五畿内きっての極めて優秀な、万全の装備の整った一万の軍隊を戦いに繰り出したものであった。(中略)
この奥方(マリア。後に高山を名乗)の長女(ユスタ)と結婚(相手は当時13〜4才の高山右近殿)した。(中略)
信長が荒木との戦いの結果、信長は池田の所領全部を他の諸侯に与え、この奥方の所領であった余野もその中にあった。その結果、彼女は追われて、困り果てたあまり高槻へ行った。(中略)
右近殿と彼女(マリア)の娘ユスタとが、高槻城主となっていた時、この母親(マリア)はもう大人になっていた息子達と、彼女が二度目の夫(クロダ殿の弟)から得た小さな他の子供達に伴われて、高槻に来たのであった。(中略)
彼女(マリア)を襲った病気によって、デウスが彼女を御許にひきとりたもうた時、彼女はやっと四十歳くらいであった。(中略)
信長が殺されたのと同じ年に、その後継者である羽柴筑前殿が越前の国に攻め入って...。(中略)マリアの年長の息子二人と、その年にキリシタンとなっていた彼女の夫(クロダ殿の弟)も一緒に同じ戦争で死んだので、マリアには三人の娘が残るばかりになった。皆キリシタンで...。(後略)」とある。何故か1基だけ少し後方に離れて置かれている。これこそが右近の義母のものではないかと想像するのだが・・・。
高札場
マリヤの墓
この地から山を越えれば、茨木から高槻への道が続くのである。
高山右近生誕地
―今日のわが愛誦短歌
・
聖書が欲しとふと思ひたるはずみより
とめどなく泪(なみだ)出でて来にけり 近藤芳美
―今日のわが駄句
・残る雪踏みてマリヤの墓在り所
高山の郷
179

8