昨日、終日かけて設えた今宮戎神社への沿道の店舗も一夜明ければ、早朝から客を呼ぶ声がひびき渡っている。夜ともなれば酔客がどっと出てきて素見(ひや)かしながら福笹を担いで行く人の列が絶えない、宵えびすの情緒は今も昔と変わらない。
昭和48年(1973)発行の角川書店発行の
『図説 俳句大歳時記ー新年』に、
小火騒ぎありて今宮宵戎という 後藤鬼橋の句を発見して、40年前の宵戎の風景を想い出した。
奉賛会員として境内の社殿脇から福笹を売る奉仕をしていたのだが、三日間の奉仕のうち最も個性的なのがこの宵戎の日であると思っている。昼前の参詣人の少ない時間帯で昵懇にしている、当時まだ健在であった石屋さん(この人は大阪大空襲で焼失した社殿から御神体を持ち出した功労者)と雑談しているとき、けたたましいサイレンをならして消防自動車が走って行った。そのことに敏感に反応して話は途切れた。周辺の出し店のどこかでボヤがあったのだろう。この老人には対岸の火事ではないのである。今でも思うのだが、狭い沿道の両側に櫛比(しっぴ)して並んでいる店の大部分は火を使った商売であり、もし強風の日であれば、大火になる可能性無きにしも非ずの危険性を持っている。それを敏感に察知したのか老人は社殿のなかに消えていった。この小火騒ぎの句に出合い、ふとよみがえった宵戎の印象である。
文化3年(1807)の
『年中行事大成』に
「夷(えびす)祭、摂州西成郡今宮村にあり。(中略)浪花の十日夷、市中、工商ともに休日とし、ゆゑあるは格別、さなきは家ごとに一人たりとも参詣せずといふことなし。なかんずく倡家(いろまち)の大節間(おおもんび)として、妓女(げいこ)・倡婦(おやま)ら一世の美を尽くし、竹奥(かご)に乗りて群集の中を押し分け押し分け、幾しきりともなく行(や)り続けしは、いとめざまし。」とある。昔から今宮戎はそんな雰囲気が江戸時代からあったのだ。
小火騒ぎの句が詠まれたころには、宵戎には、南地の芸者、ホステスらが客を同伴して繰り込むという風景が其処彼処で見受けられた。素朴な日本人のこころがあった良き時代が残っていた。そんな時代を想い出しつつ宵戎の参詣人の列を見ているところである。
―今日のわが愛情短歌
・
神はあらぬ摂理はあると影のごと
ふと隣人の呟きにけり 葛原妙子
―今日のわが駄句
・吉兆のそれだけで良し宵えびす

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