飛鳥大仏のアルカイックな微笑が、まだわが瞼のうらに残っている。紅白の萩の美しく咲く寺でもあった。
境内を出ると、目の前に広がる黄金いろに稔った稲田は美しい日本の原風景である。
飛鳥寺の萩
そこには過ってわが国を統治した都の地があったのだが、今は田中に埋没されている。そして、その稲田を取り巻く、曼珠沙華の真っ赤ないろの妖しさが、この地であった権謀術数が暗躍した歴史を嘲笑するかのように咲き乱れていた。ふと、北原白秋の
『曼珠沙華』の妖しく、ささやく声が聞こえてくる。
GONSHAN. GONSHAN. 何處(どこ)へゆく、
赤い、御墓(おはか)の曼珠沙華(ひがんばな)、
曼珠沙華、けふも手折りに来たわいな。
GONSHAN. GONSHAN. 何本(なんぼん)か。
地には七本、血のやうに、血のやうに、
ちゃうど、あの児の年の数(かず)。
GONSHAN. GONSHAN. 気をつけな。
ひとつ摘(つ)んでも、日は真昼、日は真昼、
ひとつあとからまたひらく。
GONSHAN. GONSHAN. 何故(なし)なくろ。
何時(いつ)まで取っても、曼珠沙華(ひがんばな)、
曼珠沙華、恐(こは)や、赤しや、まだ七つ。
ぬまたまの夢にかさなる曼珠沙華あかあかと咲きて今日の沈黙
わが国で最古の仏教寺院だった飛鳥寺の旧境内地の西南で、7世紀ごろの石敷き遺構の一部がみつかった。以前に70bほど北方でも、同様の遺構が発掘されているので、寺の西側に石敷きの広場か、道路が広がっていたのだろう。その石敷き地域の範囲は、東西30b、南北70b以上であったことも推定されている。そして、この石敷地には10〜20aの石がていねいに敷き詰められていた。
『日本書紀』によると皇極3年(644)、大化の改新の前の年、飛鳥寺の西側には槻(つき=ケヤキ)の木があり、「蹴鞠(しゅうきく)」=けまりをしていた中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が、中臣鎌足(なかとみのかまたり)にはじめて出会った場所であると書かれている。
推古16年(608)、遣隋使として小野妹子のもと、学者の高向玄理(たかむこのくろまろ)や学僧の旻(みん)らともに中国へ渡った留学僧の南淵請安は、隋の滅亡、唐の建国を見守り、32年後の舒明12年(640)に帰国し、飛鳥川の上流にある南淵で塾を開き豪族の子弟らに大陸の文化や制度のことを教えていた。そこで、中大兄皇子と中臣鎌足が親しくなり、蘇我氏打倒の計画を練る。いわゆる、乙巳の変(いっしのへん)で、蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした大化の改新と呼ばれる改革を断行したのである。
今は棚田に咲く彼岸花の名所に変貌したあたりの風景を愉しみながら鎌足、所縁の談山神社に抜けようとしたが、先週の台風で道路が寸断されているので、桜井から迂回せよとのガードマンの指示があったので諦めた。
―今日のわが愛誦俳句
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万葉の野あり山あり曼珠沙華 下村非文
―今日のわが駄作詠草
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たまかぎるはるか彼方に棚田見ゆ
何処にも赤い曼珠沙華かな

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