冬の満月が半分の月になり、今朝。夜明け前の通天閣上に煌々と輝いている。大阪市内にも雪の予報があったが、予報が外れた冬の空に懸かる月はどこか凄惨な感じすらした。
佐藤鬼房の
「野に老いて冬満月を食ひ減らす」と老いの感慨を思いながら、この町に住んでいた粋人を思い出した。
人気番組であった民放の「素人名人会」というテレビ番組で三味線を弾いていた女性のことであるが、ふとした切っ掛けで彼女を知ることになり、行き付けの茶房で茶を喫する機会があった。そのころ彼女はすでに還暦を過ぎた老齢にさしかかっていたが、二まわり以上歳が離れた連れ合いと永別したところであった。彼女は、そのむかし某私立大学の文学部で芸能史を教えていた教授と、その番組の付き合いで恋が芽生えたことを聞かせてくれた。何故かその時の話題が、短歌で、川田順、鈴鹿俊子の老いらくの恋のことが話題の俎上にあったためであろう。
若き日の恋は、はにかみて おもて赤らめ、壮子時の
四十歳の恋は、世の中に かれこれ心配れども、
墓場に近き老いらくの 恋は、怖るる何ものもなし。
と、 川田順(1882−1966)の
『恋の重荷』にある感慨である。
「老いらくの恋は怖れず」「相手は元教授夫人・歌にも悩み」「川田順氏一度は死の家出」と、昭和23年(1948)12月4日の
『朝日新聞』のセンセイショナルな見出しがある。
樫の実のひとり者にて終らむと思へるときに君現はれぬ
相手は、元京大教授、中川与之助夫人俊子である。俊子は歌を詠み、順に歌の教えを請う。以来、二人の交際は急速に繁くなり、事態は進展する。
このとき順は、今上天皇の作歌の指導掛をしていた。
相触れて帰りきたりし日のまひる天の怒りの春雷ふるる
順。
はしたなき世の人言をくやしとも悲しとも思へしかも悔いなく
俊子。
げに詩人は常若と
思ひあがりて、老が身に
恋の重荷をになひしが、
群肝疲れ、うつそみの
力も尽きて、崩折れて、
あはれ墓場へよろよろと。
『恋の重荷』
川田順は吉井勇や谷崎潤一郎ほか友人に「遺書」を送り、同時に遺稿として「恋の重荷」なる長詩を遺して自殺を図るが未遂。
たまきはる命うれしもこれの世に再び生きて君が声を聴く
自殺未遂から二週間。川田順67歳、俊子39歳「夕映えの恋に勝利、川田順結婚を決意、再生の大手術だつた」と、結婚する。所謂、「老いらくの恋」として話題になった。
この地で俊子の献身に支えられた安穏な晩年を送る。
何一つ成し遂げざりしわれながら君を思ふはつひに貫く
昭和41年(1966)のきょう1月22日、84歳の生涯を俊子(鈴鹿)に看取られて逝去。
「清らかさ余りありて味無きに近し」と幸田露伴が書いた冬の月を眺めながらの寸感である。
―今日のわが愛誦俳句
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雪よりは寒し白髪に冬の月 丈草
―今日のわが駄作詠草
・
静かなり通天閣の真上には
冬の月あり老いらくの恋あり

1923

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