2010年2月25日。一人の少女の頬を涙が伝った。フリーの4分間は「長かったけど、短かった、自分の演技に満足をしていない」「4年後を目指す」と、誓っている当時のテレビ映像を思い出した。4年後、少女は大人の女性になった。
彼女のデビューはあまりにも衝撃的で、トリノオリンピックシーズンの2005年にジュニアでありながらグランプリシリーズファイナルを制していた。全日本でも後にトリノで金メダルを取ることになる荒川静香選手を押さえて堂々の2位になったのだが、五輪開催の前の年の6月30日に15歳になっていないとオリンピックにはでられないという規定にひっかかり、トリノオリンピックには出場できなかった。それから数々の戦歴を引っさげて挑んだバンクーバーオリンピック。金メダルが期待され3度のトリプルアクセルを成功させながらフリーでの2度の失敗が響き銀メダルに甘んじることになる。その後、スケーティングを一から見直す為に一度今まで跳んでいたジャンプを全てやり直し、技術を磨いていった。また、表現力が乏しいと言われバレエのレッスンも再開した。そして、迎えたソチオリンピックシーズンは、スタート当初から絶好調で誰しもが金メダル候補と思っていたのだが、彼女にオリンピックの女神は微笑まなかった。
セルゲイ•ラフマニノフ(1873−1943)。帝政ロシア時代の作曲家で作風はチャイコフスキーなどの流れを汲む正統派ロシアロマン主義で重厚な和音とロシア正教や民族的な音楽により形成されている、まさにロシアを代表する音楽家である。
「数あるピアノ協奏曲のなかでも、ラフマニノフの2番の人気はゆるぎない。」「作曲前のラフマニノフは、落ち込んで筆も執れぬ状態だったという。交響曲1番が失敗作としてこっぴどく叩(たた)かれ、自信を喪失した。どん底から立ち直って紡ぎ上げたのがこの名曲だった。(「朝日新聞」2月22日付天声人語より)」そんな曲を彼女はソチオリンピックシーズンのフリーの曲に選んでいた。
「俺は母音の色を発明した。━Aは黒、Eは白、Iは赤、Oは青、Uは緑。」とうそぶいた、ランボーの
『地獄の季節』にあるように自信にあふれた曲の選択であったのだろう。
彼女とラフマニノフを語る時、バンクーバーシーズンのフリープログラム「鐘」について言及しなければならない。シーズン当初「暗い」「明るい曲が似合う彼女には向かない」とさんざんこけおろされたプログラムである。しかし、今、彼女のプログラム史上最高傑作と賞賛され、他の誰もこのプログラムを踊ることが出来ないとさえ言われている。この曲はロシア民族に根ざした「警鐘」であり、逃げ惑う人々の苦悩、怒り、恐怖、そしてそれらを乗り越えていく人間のたくましさを重厚な鐘の音とともに表現したものとされる。その曲にのった演技は鬼気迫るものがあり、鐘というロシアの象徴的モチーフを演じきった。そこから彼女の苦悩は始まるのである。
先に述べたジャンプの見直し、そして母の死を乗り越え、さらにオリンピックSPでのまさかの失速。全てが彼女の中で「わからない」状況になった。しかし、翌日今期一度も認定されていないトリプルアクセルをはじめ、今期一度も跳んでいないトリプルトリプルのコンビネーションを決め、6種類全ての3回転ジャンプを8度成功させ、スピン、ステップ全てレベル4を獲得し彼女の口癖である「パーフェクトな演技」をしたのである。ラフマニノフのピアノコンチェルト2番は苦悩と復活、再生の曲である。それを演じきった彼女もまた世界中にメダル以上の価値があると気づかせて再生した。そして彼女はまた涙を流した。それは4年前のそれと違って、やりきったという涙であった。「浅田真央」、人々の記憶にその名前を永遠に刻んで。

1367

14