(承前)真田幸村の故地である真田庵を訪ねたあと、「慈尊院」に立ち寄ってみる。有吉佐和子の名作
『紀ノ川』で存じてはいたが、参詣したのは初めてである。石段の先に世界遺産「慈尊院」とあるのには首をかしげたが、境内にある平山郁夫画伯の筆跡にある記念碑をみて間違いのないことがわかった。
「豊乃は僧を見送ってから、ゆっくりと孫娘を振り返った。かなり上背(うわぜい)のある花を見上げて豊乃は満足げに肯(うなず)き、弘法大師の御母公を祀る霊廟弥勒堂の前に伴って行った。
〈高野山にはの、女子(おなご)は入れへんがのう、この慈尊院までは上れるんやしてよし。そやよってに、ここは女人高野と云うんやして。花は知ってたわの〉〈はい〉〈祈親上人(きしんしょうにん)さんちゅう偉いお方の夢枕(ゆめまくら)にお大師さんが顕(あら)われなして、我に十度(とたび)礼せんよりは我が母に九度(くたび)拝せよとおっしゃったんは知ってたかの〉〈はっきりとは知りませなんだよし〉〈お大師さんがほいだけお母さんを敬われたと知れば、女ちゅうたかて阿呆やってええ筈ないと思わんならんわの〉〈そうでございますのし〉豊乃は静かに合掌して眼を閉じた。」
『紀ノ川』にあるこの一文で「慈尊院」の匂いを十二分に嗅ぐことができた。有吉佐和子も書いているのだが羽二重で丸く綿をくるみ、中央を乳房形に絞りあげたものがお堂にぶら下げてあった。現代もなお安産、授乳、育児を祈念する篤い信仰があるのだろう。
織田信長が桶狭間で、今川義元を討ち取ることを熱田神宮に祈願。その戦勝のお礼として寄進した築地塀(信長塀)がある。土と石灰を油で練り固め瓦を厚く積み重ねた塀で、西宮戎神社の大練塀、三十三間堂の太閤塀とともに日本三大土塀の一つとして有名であるが、通りがかりの寺僧に、「立派な土塀ですネ!」と言うと、「日本一古く、信長塀より分厚い。」と自慢していた。
成る程、境内の周囲約250メートル、その東北三方に土塀がめぐらかされている。
門前の民家の前に置かれた5個100円のはっさくが5束残っていたのを全部頂戴した。
青磁色のゆらめきと、有吉佐和子が表現した紀の川の流れが目に入って「慈尊院」をあとにした。
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