(承前)。化粧した北摂の山を縫いながら、ポンポン山を後にする。先年訪れた隠れキリシタンの里を再訪したいと妻が言い出したので、千提寺・下音羽地区にある
「キリシタン遺物資料館」に立ち寄った。
ここはキリシタン大名として有名な高山右近(1552−1615)の領地で、右近が高槻城主であった三島地域は、キリシタン教徒の一大中心地であったと歴史に残る。しかし、豊臣秀吉が、天正15年(1587)キリシタン宗の布教を禁じ、宣教師たちの20日以内、即時に、日本からの退去を命じられた。さらに、慶長18年(1613)には、徳川家康もキリシタン禁教令を出し、翌年、高山右近は、ルソン島のマニラへ追放され、家臣の他の信者たちは、その縁者までも含めて死罪・流刑等に処せられた。こうしたことから、領民の信者たちは、表面は仏教を信仰しているように見せかけ、山奥深く隠れるようにキリシタン信仰を続けていた。以後、徳川幕府は、キリスト教を日本に布教することは、幕藩政治に有害であると決めつけ、徹底的な弾圧政策をとり、国外に出ること、外国人の入国を厳禁する鎖国政策を布いた。
「・・・いちいち記憶していませんが行(ぎょう)をしました。それは、春、ツバメの来る時季に、あきというて48日間、食事を2食にして、毎日、風呂に入ってお縄(苦行の鞭)にかかるというて、右の手にお縄をもって右肩を、お唱(祈祷文)をとなえ、ぴしゃぴしゃと何べんも叩き、行がすむと、鶏肉、猪肉で精進おとしをした。人が生まれると、仏様(キリスト・マリア)に、水をお供えして、それをいただいて指(中指)に紙を巻いて筒の形にして、それを供えた水にひたして生まれた者(生児)の額に捺し、胸のあたりを手(左)の指を重ね合わせて同じくお唱えごとを唱えつつさすった。毎年、寒が明けると、仏様(キリスト・マリア)に餅を供えて知っている者(同信者)のみ寄り合って、仏様(キリスト・マリア)のある家一軒一軒拝みにまわった。人が死ぬるとお唱えごとを58回唱えたときに一つぼというて、こよりを結んでそれを沢山にこしらえて死んだ仏に持たせてやった。」
大正8年(1919)キリシタン研究者で教誓寺住職の藤波大超が千提寺で、上野マリヤのキリシタン墓碑を発見、「あけずの櫃」など、いろいろなキリシタン遺物がこの地区から発見され、沈黙していた老女の口が開かれたものである。そして、この話の最後に、次のような祈祷文が唱えられたのが記録された。
「がらさみちみち、たんもにまるや様、御礼をなし賜る。おんなるす様御身と共に女人の中に於いてましまして御果報よみしきなり、またおんたんねんの尊き御身にてまします。
でうす様の御母様たまりを様、いまもわれらが最後に、われ悪人のためにでうす様を頼み給へ、あんみんじすまりを様」と唱えられたとある。そのことばの響きを何度も繰り返し、たどって行くとかすかながらに信教の情が伝わってくる。
何時来ても静かにこころが洗われる隠れキリシタンの里ではある。
この地にまで探索の手がのびたため隠れてまで信仰を続けなければならなかったことを考えている。

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