帰阪する前に根岸の「子規庵」を尋ねることにした。
根岸と聞けば思い出すことがある。東京からやって来て新世界でスナックを始めた両人を知ったのは、20年以上前になる。双方とも東京のセンスを生かして、たちまち繁盛店にのし上がってしまった。開店して1周年が経ち、双方は店舗改装して更なる発展を目指した。大学出のAと、中学もろくろく出ていないBの意地の張り合いが、また人気を博した。Aは店に自由に出入りできるキーを顧客に持たせ紹介のない一見(いちげん)客を拒んだ。Bはふかふかの赤絨毯を店のフロアに敷き、靴を脱がせて店内に客を入れるという強気の商売を始めた。あるとき、「Aは東京の大学を出ているそうだが、一体どこの馬の骨だ」と、Bが無体をついたことがあった。居合わせた客が、「根岸に下宿していたことを聞いた」と告げると、「立小便したら、蛙の面(つら)にすぐかかるところによくも我慢して銭を払って住んでおったな」と、馬鹿にした言い方をした。「オレは神田生まれの江戸っ子だ」と言いたかったのだろう。もうその二人もかすみのかなたに消えてしまって久しい。
「本郷もかねやすまでは江戸のうち」という古川柳があることを思い出して、春日通と本郷通が交差する本郷3丁目の南西角にかねやすビルがあるのは知っていたが、教養の欠片もないBの耳学問で、まさに根岸の里は、ど田舎になっていたのだろう。
その根岸の「子規庵」にたどり着いた。10時30分が開館でまだ30分あるので、前にある中村不折の旧宅の跡に建てられている「書道博物館」で時間を過ごす。
高浜虚子が書いた
『正岡子規』のなかに「病床の子規居士」という項目がある。
「子規居士の家庭は淋しかった。病床に居士を見舞ふた時の感じをいふと、暗く欝陶しかった。先ず表戸を開けるとリリリンと鈴がなって、狭い玄関の障子が寒く締ってゐるのが眼にとまる。障子の紙も古びては居つたが、併し破れてはゐなかつた。破れたところは必ず張り替へられてゐた。「御免なさい」と障子を開けると母堂か令妹の顔が現れる。母堂か令妹の顔が現れる前に先ず居士の咳を聞く、私はずつと病室に通る。或は病室とは敷居一つを隔てた座敷に座る。居士は病苦にしかめた顔を向けて其仏眼に見るやうな長くきれた目尻でぢろりと人を見る。」この虚子の描写で、ざっと子規庵の様子を把握することが出来る。
病室であった座敷から、子規も眺めた庭の空間を見ていたら、二番目の見学者が入ってきた。一緒にビデオを見た。聞いてもいないのに俳句をやっていますときた。仕方がないので、子規の俳句では、
「鶏頭の十四五本もありぬべし」ですな、と言ったら同感ですと共鳴された。来館者がないので、どちらから来られたかを不躾に尋ねると、神奈川県の厚木だという。マッカーサーが得意満面で降りて来たのを思い出しますネ。そのあと作った憲法で戦争放棄し平和が続いたことをいま忘れようとしているのは、と憲法談義に及んだ。ところで大阪はおかしな判断を出しましたね、と都構想の結果の話題になった。改革を求めようとしなかった、大阪市民である立場が微妙になってきたとき見学者がぞろぞろ入って来たので話は途切れてしまった。子規庵の庭には鶏頭をはじめとしてこれから咲こうとする草木がいっぱい植えられていた。おそらく子規は、余命幾許もなきことを感じながら、日本の俳句短歌の思想を一変させて次代に引き継ぎたいと悲痛な気持ちになってこの部屋で呻吟していたのであろう。 厚木の人とはまたどこかで、と別れた。
・きょうのわが駄作詠草
歩きつつこの町に住む人を思う連れ込みホテルに俯きながら

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