昭和のはじめごろから営業していた
「日本橋湯」(浪速区日本橋4−1−9)。たしか昔は「日東温泉」と呼んでいたようだ。が、昨年6月に閉店して当時の建物を残してそのままそこにあった。周辺にあった「軍艦アパート」と異名があった昭和初期に建てられたわが国最古の鉄筋市営住宅も寄る年波には勝てず、近代建築の高層団地に一変してしまった。ために、古い建物にはなかった風呂も敷設されて、銭湯の営業は衰亡の憂き目を見ることになってしまった。折角のレトロの雰囲気のある風呂屋の造作が残る建物をこのまま指を咥えて放置するのも勿体無いことで、何か活用すべき術を考えた篤志家が現われて、不定期ではあるが催し会場として復活させようとし、その第一回目の
「日本橋銭湯寄席」と銘打った笑福亭純瓶による落語二席の熱演があった。
湯船にはいまは焚かないが、水が張られ、脱衣場は立錐の余地もない超満員の盛況で、使われていたヒノキの風呂椅子に腰を下ろして出を待つという仕組みである。女湯側から出囃子に合わせて出て来た純瓶師は鶴瓶師の高弟とかなかなかのテクニシャンで上方落語の四天王が居ない次の一角は吾輩であるとうそぶいていた。
「明治大正、その時代にはやっぱりあのゥ、中から汲み出しましたン。え女湯男湯ゥの、丁度真中の所に、ぇー湯舟と、上がり湯でございますね。おか湯と言いまして、それからあのゥ、水舟がこうその隣にある。手桶でこれを汲み出して、使うと言う訳で。第一あのゥお湯ゥを埋める時が、自分で埋められないン。あの羽目を叩きます。トントーンとこう叩く。そうすると、三助がこの埋めて呉れると言う訳で。勝手にィー温くしちまうなんてぇ訳には、そりゃいきませんで、誠に不便なも…… ……<夜のお湯ゥ〜お湯ゥ屋の二階>…… ……で、ェヘッ、これは極くゥ昔でしょうが、女湯を覗く穴があったそうで。で考えて見ると、怪しからんもんですねぇ、えー、男湯から女湯を、覗くんですから、今そういう物があったらあたくしなんぞは一ン日借りっ切りで、覗いていたいと思いますが。無くなってしまったのは誠に残念な訳で…」と、女湯から登場して、そんな噺をするものだから、つい風呂屋の匂いが伝わってくる。
日本橋にまた一つ、新しい文化が生まれようとしている。今後の展開を楽しみにしたいものだ。
・きょうのわが駄作詠草
風呂桶の湯垢を舐る妖怪の噺などあり冬のはてかな

4010

16