朝早く妻は、カニツアーで山陰の浜坂まで出掛けて行った。自分が世話、段取りをしているので万全の気配りの様子であった。食べ物のことはその時の運(まん)で恨みごとをかうことが他聞にあるので随分気にしているようであった。先月ここに行って来た人から昨年より不漁らしく小ぶりであったことを聞いたことへの慮(おもんぱか)りなのであろう。一方、娘もどこかに出掛けて行ったので、残された猫三匹と留守番しているところである。
仕方がないので、退屈を紛らわそうと、書架から何気なく取り出した佐多稲子(1904−1998)の作品集をめくっていたら、初期の作品に、
『くれない』という佳品が目に留った。佐多稲子といえば、一家の窮状を助けるべく、キャラメル工場へ女工として通うことになった、そのときの体験に基づき、少女たちの集団労働の現場を描いた、
『キャラメル工場から』で知られているが、この、
『くれない』もなかなかの力作で、一気加勢に読了した。
昭和10年代初め、それまで革命運動に献身的であったプロレタリア文学者である夫婦が転向を余儀なくされて現実の家庭生活で、あらためて直面しなければならなかった矛盾葛藤と苦悩とを作家である妻の側から鋭く追求した作品である。夫婦ともに仕事を第一にと考えながら、現実には文学と家庭生活との両立に悩まされ、夫が外に愛人ができ、作家である妻が、家庭崩壊の危機のなかで泥沼にあがく苦悶を経験する過程が、自伝的に描かれている。
その文中にこの季節の匂いをかぐことができる一節に出会った。
「春はまためぐって来た。 上落合に独りですんでいる岸子を訪ねて、独りで、暗い静かな横町を散歩した。沈丁花がとおり一杯に高く匂っていた。『ああ、この通りには落合には珍しいと言われる位の大きな沈丁花があるよ。』明子はそれだけを思い出して言った。『濃い匂い、ねえ』二人はその甘い濃い匂いの中に身をひたしながら、二人の話題に頭を垂れて歩いた。」
わが家の猫の額ほどの中庭には、父が植えた沈丁花(じんちょうげ)が、栄枯盛衰植え継がれて残されている。その花もつよい匂いを漂わせる春が今年もやって来た。
・きょうのわが駄作詠草
春の光(かげ)金魚に投げて動き出すどこかより来る丁子の匂い

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