月が9月とかわったがまだ残暑の厳しさを感じる。外を歩けば風は残る暑さを貯めて吹いて行く。昭和20年(1945)8月15日の敗戦からの日々、当時の日本人は、進駐して来た敵兵を見て祖国がどうなるかのかと不安の毎日をこのような残暑に耐えていたのだろう。
エアコンが効いた家にもどって朝刊に目を通している。「語りつぐ戦争」と題する投書に目が移る。89才の大阪府の老女の文章が心を打つ。「1945年。私は梅田近くで両親、姉と4人暮らしで、弟は海軍飛行予科練生で九州にいた。3月13日の第一次大阪大空襲では火の恐ろしさを目の当たりにし、6月7日の大空襲では逃げても逃げても米機に追いかけられた。家が焼けたので、罹災証明をもらい父の郷里山口県光市へ。8月6日早朝、家の庭に埋めた家財を取りに行こうと姉と汽車に乗ると岩国で停車。やがて荷台に死体を山と積んだトラックが次々と。原爆投下の日でした。14日には近所の光海軍工廠に空襲が。動員されていた女子学生たちが犠牲になり、家の裏の松林に負傷した少女たちが横たわり、苦しさから「殺して」とうめいていた声が忘れられない。終戦を知ったのは17日。その後一家は一緒に暮せないまま。」であるという。
71年前のきょう。東京湾上に停泊していた米戦艦ミズーリ号上の甲板で、連合国に対し、日本の降伏文書調印式が行われた。そして、日本側全権の重光葵外相と梅津美治郎参謀総長二人が席に着くやいなや、マッカーサー元帥は、自由と正義と寛容さを説きだし
「日本民族がその才幹を建設的に活用するならば、やがて惨憺(さんたん)たる状況を脱して栄誉ある地歩にすすむだろう」と、予定にないスピーチで日本国民を励まし、足掛け5年に及ぶ太平洋戦争の終幕を迎えた。そんなことを想起しながら、71年前のきょうを振り返っている。
・きょうのわが駄作詠草
甕に水満たしてめだか育ちいる夏の終りてその後思う
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