世の中には玄人はだしの隠れた才能の持主が間々ある。そんな人に出合うと、感銘を覚え、胸のときめきを感じるものである。私にも肝胆相照らす知己がいる。ひょんなことから古書市で出会ったのがきっかけでもう30年余りの交際がある。たまたま手にした書物を見て求めるべきかどうかを躊躇っていたら、横にいた人が譲って欲しいということであった。古書市の店頭には殆んど出ることがない歌集である。どうしてこの歌人をご存知ですかと訊くと、感性が合うからという単純な応えが返って来た。爾後、不自然な関係がいつの間にやら自然な関係になってしまったのは、ジャズ関係の膨大な蒐集家である事を知ったからである。彼の集めたコンパクトディスク(Compact Disc、CD(シーディー))が自宅を埋め、愛想を尽かした夫人と離婚騒ぎを起こした猛者である事も知った。そして、年に一、二度訪ねて来てはいろいろと特殊な情報を伝えてくれた。
昨夜、突然、訪れた彼は、一枚のCDを差し出して、「今晩は、台風の影響で大雨が降るから、この映画を観て泣け!」と、妙なことを言って帰って行った。河瀬直美監督の
『あん』という評判の作品であった。早速、観賞する。スクリーン一面が桜の咲き乱れる公園が写し出されている。その公園に面したどら焼き屋で、辛い過去を持つ千太郎(永瀬正敏)は雇われ店長を続けている。ある日この店を徳江(樹木希林)という手が不自由な老婆が訪れ、時給の半額でいいからバイトに雇ってくれと千太郎に懇願する。彼女をいい加減にあしらい帰らせた千太郎だったが、手渡された手作りのあんを舐めたらその絶妙な味に驚く。徳江は50年あんを愛情をこめて煮込み続けた女だったのだ。店の常連である中学生ワカナ(内田伽羅)の薦めもあり、千太郎は徳江を雇うことにした。やがて徳江のあんを使ったどら焼きのうまさは評判になり、大勢の客が店に詰めかけるようになった。だが、店のオーナー(浅田美代子)は徳江がかつてハンセン氏病であったとの噂を聞きつけ、千太郎に解雇しろと詰め寄る。そしてその噂が広まったためか客足はピタリと途絶える。それを察した徳江は店を辞めることになる。素材を愛した尊敬すべき料理人、徳江を追い込んだ自分に憤り、酒に溺れる千太郎。ワカナは彼を誘い、ハンセン氏病感染者を隔離する施設に向かう。そこにいた徳江は、淡々と自分も自由に生きたかった、との思いを語るのだった。まだ蒸し暑さが取れない秋の夜は静かに更けていた。余韻が残る佳作であった。
・きょうのわが駄作詠草
たまゆらに人の命の哀しさを映画なれども涙こぼれる

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