三度目の正直を狙うことになってしまった。連日、命胆夕に迫っている、老衰して行く母親の看病に、たまきわる命を削っているのはその当人ではないのかを案じている毎日が続いている。たまりかねて好物の柿の葉すしを送り元気つけようと、「文化の日」とこの日曜日に、桜井市山田にある「山の辺」というこだわりの柿の葉すしを作るすし舗を訪れたのだが、生憎、両日とも完売の憂き目に会っている。正午近く大阪から車を飛ばして行っても手にすることが出来ないとは。午前10時の開店なので昼には間に合うものと高を括っていたが、こうなったら、意地にでも手に入れたくなってしまうというのが人情というものである。午前8時すぎに自宅を出る。先日の日曜日に見学済みの明日香までの今年の山々の秋の化粧にも興味がわかず40分前に現地に着いた。すでに5人先客がありそれぞれ遠方からの来店らしく車が店の前に並んでいた。
柿の葉すしを食して絶賛した谷崎潤一郎は
『陰翳礼讃』で、「米一升に付き、酒一合の割りで飯を焚く。酒は釜が噴いて来た時にいれる。さて、飯が蒸したら完全に冷えるまで冷ました後に手に塩をつけて固く握る。この際、手に少しでも水気があってはいけない。塩ばかりで握るのが秘訣だ。それから別に鮭のアラマキを薄く切り、それを飯の上に載せてその上から柿の葉の表を内側にして包む。柿の葉の鮭もあらかじめ乾いたふきんで十分に水気を拭き取っておく。」との能書きが述べられている。そんな手法で握られた柿の葉すしかどうかは知らないが、11月頃から12月頃の柿の葉が色づく季節の色とりどりの葉片で包まれた季節を思わせるすしのすがたを見るとこの時季を共有する幸せを覚える。
さて、「山の辺」の店舗は、如何なる由縁なるかは知らないが、そのかみ蘇我山田石川麻呂が建てた山田寺の地にある。
山田寺の開基である蘇我倉山田石川麻呂(? - 649)は蘇我氏の一族に属し、蘇我馬子は祖父、蘇我蝦夷は伯父、蘇我入鹿は従兄弟にあたる。石川麻呂は蘇我氏の一族でありながら蝦夷、入鹿らの蘇我氏の宗家とは敵対しており、中大兄皇子(天智天皇)、中臣(藤原)鎌足らの反蘇我勢力と共謀して、皇極天皇4年(645)の乙巳の変(蘇我入鹿暗殺事件、大化改新)に加担した。乙巳の変後の新政権では、石川麻呂は右大臣に任ぜられたが、
『日本書紀』では、その4年後の大化5年(649)、石川麻呂の異母弟蘇我日向が、石川麻呂に謀反の志があると中大兄皇子に密告。孝徳天皇の軍勢が差し向けられ、抗戦せずその一族とともに山田寺仏殿前で自害したという史実が残る。これが石川麻呂は無実であり冤罪であったとされることは興福寺にある国宝の山田寺仏頭のみが知ることである。
三度目の挑戦で漸く手にしたいろとりどりの柿の落葉に包まれた歴史のロマンを憶い飛鳥の地を後にする。

・きょうのわが駄作詠草
謀反という疑いあらばたちまちに殺されるのかとすし食いつ思う

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