天気が好いので行楽に出掛けることになった。孫たちが、
『小倉百人一首』に興味があるとかで、追々に所縁の故地を案内したいと思うのだが、寄る年のこともあり無理がきかなくなって来ている。
「むかし丹波の、大江山、鬼どもおおく、
こもりいて、都に出ては、人を食い、金や宝を、盗みゆく。
源氏の大将、頼光は、ときのみかどの、みことのり、
お受けもうして、鬼退治勢いよくも、出かけたり。」
と、石原和三郎作詩・田村虎蔵作曲による大江山への鬼退治の童謡を唄いながら福知山市の大江山を目指す。
「大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立」は、和泉式部(976−1030)の娘、小式部内侍(こしきぶのないし)の詠草である。現代女流詩人の吉原幸子は、(大江山をこえ、生野をこえ、遥か旅してゆかなければ、母のいる丹後の国へは参れません。丹後の国の天の橋立 音にきくその景勝の地も まだ、この足で踏んだことはないのです。そうして、むろん母からの文(ふみ)も届きません。ああ、なつかしいひとの住む 見知らぬ国、美しい国〈わたくしとて、母に会いたい、文も見たい。けれどもそれは、あなたのおっしゃる、つまらぬご想像とは、無縁の話・・・〉)との解釈をしている。小式部内侍は、母譲りの才媛で十五歳のころ、歌合に出席することになり、貴公子の藤原定頼が彼女がいる局(つぼね)にやって来て、「丹後の国へもう使いは出しましたか?」と母親に代作でもして貰わなければ心細いでしょうと、からかったのだが、彼をひきとめてこの歌を詠みかけたところ、定頼は返歌に困って逃げ帰ったというエピソードもあると訊く。「行く」→「生野(いくの)」。「踏み」→「文」という掛詞(かけことば=修辞法の一つ。一つの言葉に二つ以上の意味を持たせたもの)を巧みに織り込んだ流れるような調べのなかに、再婚して遠方にいる母親を慕う少女の淋しさが思わずにじみ出ている。
その大江山ではあるが、息子の嫁が舞鶴の出身なので都度に訪れる折に訊いても定かに判明したことがない。それが伊勢神宮よりも先に皇祖天照大神が祀られていたとのことで「元伊勢内宮・外宮」との呼称がある。そして、その元伊勢内宮の皇大神社の背後の山容が大江山であることが判明した。新一年生に成り立ての女の子が、先に着いた外宮で車を降りるなり鬼が怖いと泣きじゃくっていた。此処に来る途次の道路各所に鬼退治を示唆する立看板があるのを見て本当に鬼が退治に来たのかと怯えたことが分った。
源頼光(944−1021)と同時代に生きていた和泉式部は夫の任地の丹後にいたはずである。小式部は二人の貴公子に愛されて子を生んだが二十代で早逝して母を嘆かせている。そんなことを思いながら大江山を仰ぎみている。
全くにうなじ美しき少女なり丹後の国の初夏の空

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