九月は葡萄の季節である。あちらからもこちらからもいろいろと贈られてくる葡萄を啄むのは愉しい。
「葡萄吸ふひとの情人のまなこ澄む」。家業が酒屋で、その若い日々、酒を配達する折、このような妖艶な句を物した俳人秋元不死男の大胆な目線が羨ましい。このような光景を、歌人福田栄一の詠草によれば、
「ひと房の葡萄を持てば君が手に流るる如く秋の紫」の抒情が流れるように伝わって来る。
お彼岸になれば、季節が移り変わり、人のこころも変わるものであろうか。一粒づつ葡萄をつまみながら、丹羽文雄の
『こうろぎ』という短編を想い出している。三人の子を残して夫に死別した女の話であるが、戦時中疎開して戦後も疎開先を離れることが出来ず、村の人になぶられ、胸を病んで亡くなるまでをリアルに描いた作品なのだが、この作品を紹介して、同じような立場で、喫茶店を立ち上げ、頑張った女性がある。生活力に差こそあるものの、女手一つで遺された子を育てあげた根性の強さに感動を覚えながら陰ながら支援したものだ。
甲州や岡山のぶどうは有名であるが、大阪の河内地方にも葡萄の産地がある。知人にその地方出身の印刷工場に勤める実直な人があった。彼は葡萄産地の村から大阪の印刷工場にやって来る。そして、葡萄の収穫の季節になれば、自分の土地を貸した葡萄棚から獲れる葡萄を分けてもらい、我々もお裾分けに与ったものだ。そして、喫茶店の女性にもご相伴にあずかっていた。ところがその女性は、自分用の一部を除き、あとは、来客に無償で振る舞い評判になり店は繁盛して行った。が、胸を患ってしまった。不憫に思った印刷工場の勤め人は、彼女の子を思い、彼女と結婚。彼女は不帰の人になったが、遺児を立派に成人させるという、丹羽文雄の
『こうろぎ』とは違う美談になってしまった。リリリリリリリと鳴くこおろぎの声は今年も何処からか聞えている。
秋の蝶よわよわしげにただようと彼岸花咲く道歩きいて

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