戦争が終ってまだ数年経ったころ、焼跡に建てられた新制中学校のバラックの校舎の別棟にある音楽教室から「きよしこの夜」と題する、英文の歌詞が黒板に書かれレコードが流されていた。多分、駐留軍の指示であったのだろう。英語の教師がその歌詞を拙い発音で読み、音楽の女教師はオルガンを懸命に弾いていた。
Silent night, holy night!
All is calm, all is bright.
Round yon Virgin, Mother and Child.
Holy infant so tender and mild,
Sleep in heavenly peace,
Sleep in heavenly peace.
夕方のラジオでも流されていたようだが、電力不足による停電と雑音で中途半端の状態で、この異邦人の聖歌は今では考えられない、受け入れられ方を日本人に押し付けられたのであった。
「その頃、天下の人を戸籍に着かしむべき詔令(みことのり)、カイザル・アウグストより出づ。この戸籍登録は、クレニオ、シリアの総督たりし時に行はれし初のものなり。さて人みな戸籍に着かんとて、各自の故郷に帰る。ヨセフもダビデの家系また血統なれば、すでに孕(はら)める許嫁(いいなづけ)の妻マリアと共に、戸籍に着かんとて、ガリラヤの町ナザレを出でて、ユダヤに上り、ダビデの町ベツレヘムというところに到りぬ。ここに居る程に、マリア月満ちて、初子(うひご)を産み、これを布に包みて馬槽(うまぶね)に臥させたり。旅舎にをる処なかりし故なり。」と、1818年12月24日の夜、オーストリアのアルプス山中にあるハルラインという村で、ヨゼフ・モールという神父が一人静かに聖書を読んでいた。そしてその日に起った出来事を、詩にし、クリスマスの当日、村の学校の音楽教師に作曲してもらったのが、
この『きよしこの夜』であるとか。何故か、この曲は、意訳された日本語ではなく、英語で歌うことが出来るようになっている。
聖夜とはケーキまた来るプレセント酒呑みたちのあの顔この顔

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