日曜日は家族が出払って誰もいない。娘は千切り千切り歩いている中仙道を守山から近江八幡辺りまでを散策に出掛けて行った。妻も行き先を告げず、夕方までに帰ると、ちょっと出掛けて来ると消えて行った。下宿している孫も京都での対外試合があると居ない。早朝、3時過ぎに目ざめ眠られぬまま、やんごとなく小笠原忠
『会津八一歌がたみ 奈良』を読んでいる。帯に「生涯をつらぬいて奈良を愛しつづけた会津八一、秋艸道人。本書は、その全作歌の中から選び出された奈良ゆかりの歌と、道人を師と仰ぎ自らも奈良を酷愛する著者が、それらの歌に詠まれた場所を訪れ綴った印象記とで構成されたものである。」とある。
帝室博物館にてとして、「はつなつの かぜとなりぬと みほとけは をゆびのうれに ほのしらすらし」(初夏の風となりぬと御仏は お指の末に仄知らすらし)という八一の詠草に出会う。仏像の指先にかよう風に、八一らしい繊細な感覚が伝わって来て、もう夏になったのだという思いになる。
疲れを癒そうとビルに囲まれた、わが家の坪庭に佇む。ふと見れば、枯れたと思っていたフタバアオイが勢いよく伸び、日向水木も丸い葉を茂らせ、オリーブも新しい葉が出て、山椒はこれ以上は無理だというほど繁り、金柑、沈丁花、 ドクダミまで芽が出てきている。こんな狭いところにまだまだ色々芽吹いているのに驚いた。
「草の葉を透る日かげに吾が息も殺すべくして蝶生(あ)るるなり」と安永蕗子のため息が伝わってくる同じ光景を眺めている。この季節は生命が明るくそして美しく萌え立つ躍動を感じながら、一方で生の衝動に伴うかなしさや暗さをも合わせ持っていることをも気付くのである。
初なつの風に乱れし髪撫ぜる白髪が落ちるは音がなきかな

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