朝からの雨に大阪の街なかは煙っている。中国の旧満州の旅から帰って来て、早くも一週間が経っている。その旅の一齣、一齣を想い出して下手な綴り方を認めているのだが、あのことこの事と遅々と筆は進まない難渋の道程を行進中である。恰も、日露戦争の折、日本とロシアが満州、朝鮮半島などの権益を巡り、明治37年(1904)に勃発した日露における遼陽会戦を想起している。同年8月24日から9月4日まで行われた会戦では、両軍の主力がはじめて衝突した戦いで、ロシア軍は15万8,000の兵をもって防御網を展開し、日本軍は12万5,000の兵で、計28万の兵が衝突。日本軍にとってははじめて近代陸軍を相手にした本格的会戦であった。
遼陽城頭夜は明けて 有明月の影凄く 霧立ち込むる高梁の
中なる塹壕声絶えて 目覚めがちなる敵兵の 胆驚かす秋の風
長春に一泊のあと高速列車で約1時間半、遼寧省の省都瀋陽(奉天)に着いた。出迎えてくれた瀋陽のガイドが冒頭歌った
『橘中佐』の軍歌には驚いた。今、中国人がこの軍神の歌を歌うとは日本人を意識してのことであろうが、さて、現在、如何程の日本人がこの歌曲とその物語を承知するのか分らない。日露戦争における、陸の橘、海の広瀬の軍神は、まだ語り継がれて行くのだろうか。瀋陽は、清朝(後金)建国のヌルハチが、1625年に都と定め、その後、明王朝を倒し都を北京に遷し、瀋陽には奉天府と呼ばれる地方機関が置かれ、奉天という地名が起ったとの説明があった。が、司馬遼太郎がいう中国最後の王朝の故地である大地がロシア、日本という外国に蹂躙される運命になろうとは、清国人には迷惑至極なことだったろう。その司馬遼太郎も
『坂の上の雲』取材、執筆中に立寄ったと聞く「老辺餃子館」で夕食をした。
河北省からやって来た辺福という男が1829年に開店したとか。よって瀋陽は餃子発祥の地と言われている。
中国では、飯や麺と同様の主食で、弾力ある皮に、エビ、ニラ、白菜の酢漬けなどが詰められていて、ロバの肉の餃子も出て来たが肉汁がしみ出して歯ごたえを感じた。ガイドがロバの肉は東北では美食の最高だとの説明がなされた。序で狗(犬)はと聞くと、ここでは出ないが朝鮮族の店では重用されているとあった。
瀋陽は遼寧省の省都である。市内の人口は523万人、周辺部を入れると8年前に1000万人を超えている。経済開発特区であり、重工業のまちである。そして中華人民共和国の長男と言われている。漢民族と19の少数民族が暮らしている。清王朝発祥の地でもある。
今はモータリゼーションの時代で1日の登録台数は350台という。西は工業団地で南は新市街である。
北緯41・4度、東経128・8度にあり大陸性モンスーン型気候で、内モンゴルのほうから砂嵐がやってくる。冬は長くー35度になり、夏は30〜35度。雨はあまり降らないが水には困らない。地下水でまかなわれている。四季もあり5月がベストシーズンとか。
このような説明が実に流暢な癖のない日本語で話された。瀋陽のガイド王さんである。日本人よりうまいと言おうか、日本人以上、その上語彙も豊富で驚かされた。この秘密は2日後、王さんと別れて後に明かされた。王さんの母親は残留孤児で小学校1年生から高校まで日本で暮らしていたという。貧しい少年時代を過ごしたと聞いたがそれは日本でのことであったのだ。現在、王さんは要人の通訳とか、ツアーでも上客が来た時に呼ばれるらしい。さもありなんである。非の打ち所がないガイドであり、正直な所も吐露してくれた。ありがたい出会いであった。
こうして二泊する瀋陽の夜は更けていった。そうそうビールはキリンビールと合弁というかキリンビールが技術指導した雪花ビールであった。500ml、30元(540円)、ちなみに3日目の歩数は8461歩であった。
ひまわりの種を食みつつ中国の歴史を想う初夏の夜
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