11月もきょうが終りの日を迎えている。近隣の銀行には、相変わらず月末に支払われる生活保護費を受け取りに来る自転車が歩道に溢れていて、わが家の前にまで続いている。まだ朝刊も読んでいないのに、妻が散歩に出掛けると宣告する。今日こそ四天王寺の向こうまで歩いて行くと言う。不可能に近い難行苦行の世界ではあるが致し方なく追随を決め込む。ま東に松屋町(まっちゃまち)筋を横切って新清水(きよみず)坂の上りにかかる。上り詰めれば谷町筋、渡れば四天王寺の境内に繋がって行く。ところが、谷町筋を渡るまでもなく哀しいことに足が棒になりかけたので左折と決め込む。
星光学園の前に差し掛かると「浮瀬(うかむせ)」の跡の碑が建っていた。その最晩年に大坂を訪れた松尾芭蕉は、支考ら10人ばかりの弟子たちと、新清水の浮瀬の茶亭で句会が催されるが、暮れ易い秋の日に会を早めに終えて酒席に移ったのだが、先に新清水の舞台に登ったころから何という事なしに、自分の心のなかに淋しい水泡がふつふつと湧いて来て、独りじっと考えていたいような気になっていた。その芭蕉の心のなかにある悲しさというのは、突き止めて言えば、自分が精魂を傾けて拓いて来た新しい俳諧の「道」というものに対する頼りなさとも言うべきものだったと、
『旅人芭蕉抄』のなかで、荻原井泉水は述べている。芭蕉の俳諧への思いはともかくとして、浮瀬があった星光学園の坂道を歩いていると、このとき詠んだとされる
「此道や行く人なしに秋の暮」の風景とも合致する道が今も歩いている眼前に展開されていて、足が棒になっている思いなどが消え去っていた。
そして、芭蕉は、何気なく空を仰いだら渡り鳥の群れが、見る見る雲のなかに隠れて行く光景を観て、秋と冬とを尋ねて、漂泊して生きているもので、彼らこそ自然の旅人で、旅に生まれて、旅に死ぬもので、何も淋しがることはない、自分も旅に老い、旅に死ぬまで、枯木にとまって詠っているだけだと悟り詠んだ、
「此秋は何で年よる雲に鳥」もここでの句だとされている。そして、その後、激しい下痢が続き体調を崩している。
「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」という句を、「ゆうべは心が冴えて睡られないので、句を作った」と去来を枕許に呼んで示して、間もなく不帰の人になったことを想い出しながら芭蕉の人生を追想している。昨日より倍に近い歩数をそんなに疲れずに帰宅できたのは、昨日の訓練があったからであろうか。
この道は廃れず今に残りいる笛吹くごとく飛ぶ鳥一羽

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