きょうは彼岸の中日であり、秋分の日の前後三日の七日間を彼岸とするのだが、一般的には彼岸といえば春の彼岸を指すとか。蚊取り線香を燻べて午睡している間に家には誰も居なくなっていた。行き先も告げられず、近松門左衛門の
『女殺油地獄』のセリフにある
「余所の事はほからかしてサアサア参ろう、日がたける」とある、ホカラカスの転訛とも考えられる、ほったらかし(打ちすてておく・かまわずにおく・すっぽかす・投げやりにして顧みないの意。牧村史陽
『大阪ことば事典』)の状態になっていた。その蚊取り線香にいぶされたのか、今に残っていたのか、秋の蝿が部屋のなかを弱弱しく飛んでいるのを庭に追いやると、メダカの池に落ちて死んでしまつた。
中村草田男が詠んだ
「秋の蝿一つ真水の上に死す」という句を思わず口ずさんでしまった。というのは、大学生時代、学籍番号が近く同じ学級に属していた広島県の福山から来ている学生と親しくなり、短歌部に在籍した自分と友だちのよしみを交換することになった。城下街に育った彼は、グリークラブで好きな歌を歌い望郷の念を抱きながら学生時代を送っていたのだ。そのグリークラブが今年創部120周年を迎えることが、今朝の「朝日新聞」で取上げられていた。男性合唱団に興味がなかったが、部室が上ヶ原キャンパスの中央講堂の二階であった関係でグリークラブの発表演奏会でその歌声に接する機会はよくあった。今日の新聞記事によれば、第一次世界大戦後の1919年、船の修理で神戸に帯在した旧チェコスロバキア軍が当時神戸の「原田の森」にあった母校に招かれ音楽会が開かれ、軍の合唱隊が熱唱した
『ウ・ボイ(戦いへ)』に感動。楽譜を譲り受けクロアチアの愛国歌は以後、母校のグリークラブに受け継がれていて100年経ったという。その記事を読んでいて、当時グリークラブにいた彼は今はと考えるとき、卒業以後、60年以上が経っていて彼を思い出すのは不可能に近いことになってしまった。あるとき、学部への道を歩いていたら、彼の口ずさむ
『ウ・ボイ(戦いへ』を聴きながら道筋の池に秋の蝿が落ちていくところを眺めていたことである。
戦いへ! 戦いへ! 剣を抜け! 兄弟よ。
我らの死に様を敵に知らしめよ!
すでに街は炎につつまれ、敵の怒号は狂わんばかりに響く。
我が胸に炎のごとし、我らの刃音を聞け。
ズリンスキーに接吻しよう。忠義の有志達よ、続け。
わが短歌部でも、学徒動員で戦地に派遣された先輩から、その様子を事あるごとに聴かされたことであるが、120年の伝統を持つ名門のグリークラブである。歌い継がれることは当然のことである。
秋彼岸曇り勝ちにて日が昏れる戦前戦後と人代わりいて

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