最近歩くことが少なくなっているのを気遣って妻が散歩に誘ってくれるのだが、出不精という心のづぼらさとのせめぎ合いに苦慮させられる。南天の実の赤が目に留まる師走の道筋に差し掛かり、ふとこの実南天(みなんてん)を詠んだ沢木欣一の
「南天の実に惨たりし日を憶ふ」という俳句の印象に、果たしてわが人生に苦しいことがあっても惨(みじ)めなる思いがあったのかと考えても浮ばないのである。そして、何時もと違えた道筋に入ったときに、妻が声をかけた女姓があった。自分は失念していたのだが妻が覚えていたのである。我々が結婚して半世紀。金婚の年も過ぎてしまったのだが、若気の至りだったのであろう。母と同郷であったよしみでその娘を見合いさせたことがあった。お見合いの結果交際するということになりこれは成功するのではと思っていた矢先。その娘から断わりの連絡を受けた。聞けばデートの折、相手が鳩を轢いてしまいそのまま処理をせず逃げ去ったと言うことであった。我々に代わって今度は母親同士が修正に努めたのだが説得できず破談になってしまった。以後、娘の母親は死亡し付き合いも途絶えてしまった。その女性もすでに還暦の齢を過ぎたとかで、未だに独身であると、はにかんでいた。彼女には惨めな人生であったのだろうか。玄関には正月を意識したのか、実南天の赤が鮮やかに目に留まっていた。
南天の赤き実のなる家の前惨めなるかな悔しさもまた

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