一日がたちまちのうちに過ぎてしまう気ぜわしさに押されそうになって、歩くことを怠ってはと、散策に出掛ける。昨今、ビル化が進むわが街の変貌を眺めながら、織田作之助が
『木の都』で慨嘆した、
「くちなわ坂」からわが街を見て、「口縄坂は寒々と木が枯れて白い風が走っていた。私は石段を降りていきながらもうこの坂を登り降りすることも当分・・・」とこの地から眺めたわが街を遠望した文学碑を想い出す。織田作がこの
『木の都』の作品を発表したのは昭和19年(1944)のことで、口縄坂から彼の目に映った坂下にあるわが街は、甍(いらか)の波が連なっていた光景であったはずである。
そして翌年3月13日の大阪大空襲で灰燼に消されてしまった。焼野原が累々と続き、そこから大阪城が見られたものだ。それは、徳川氏率いる江戸幕府が,大坂城を拠点とする豊臣氏を滅ぼした戦い。 慶長19年(1614)に行なわれた冬の陣と、同 20年(1615)の夏の陣を想起した風景と重なる。
ある町人が残した記録『みじかよの物がたり』には 、「男、女のへだてなく老ひたるも、みどりごも目の当たりにて刺し殺しあるいは親を失ひ子を捕られ夫婦の中も離ればなれになりゆくことの哀れさその数を知らず」と、その悲惨さが語られて以来の大阪の街の情景であったのだ。
現在、終戦直後に建てられた古い木造住宅がつぎつぎに建て替えられビル化が進められている。令和のビルラッシュでホテル街への変身を窺わせているのも徳川氏が全国から職人を集めて大阪を経済都市に、その職人たちの宿泊施設にわが街を旅籠街にした経緯があるのを考えると、歴史の輪廻(りんね)の不可思議さを思ったりもしている。
白い風吹きいる日なり思わざる人と遭いいて坂下の道
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