承前。ハッピーマンデーの実施で今年は9月21日(月)が「敬老の日」になっている。東京の息子夫婦がわれわれと合流するため早朝からやって来るので、宿泊のホテルの7時からのバイキング朝食に出掛ける。大阪人には珍しい、信州の山菜の数々に圧倒され慣れない風味を愉しんだ。
8時30分東京から息子夫婦が来てくれた。深田久弥が
『日本百名山』蓼科山で伊藤左千夫に触れている。「中でも左千夫の絶唱であるところの”さびしさの極みに堪へて天地(あめつち)に寄する命をつくづくと思う”は、やはりこの高原にあっての感動であった。」とある文章を想い出して、伊藤左千夫の実績を訪ねようと思い立つ。それは娘がお父さんに好い場所としてピックアップしてくれていた所でもあって、息子の車で蓼科温泉街の武田信玄の隠れ湯と伝えられている蓼科親湯(しんゆ)温泉を訪ねる。訪問の意図を告げると、どうぞ〜ということで大正15年創業の由緒ある建物に入る。蔵書3万冊はどこか?入って右手には文庫本がズラーッと並んでおり、フロント前にも四面書棚がいくつも並び、その奥の広いラウンジにはもう圧倒されるほどの書棚が連なっていて、ゆったりとした立派なソファが、ゆっくり座ってお好きな本を紐解いて下さいと言わんばかりにランダムに置かれていた。ショットバーまであるではないか。大正、昭和初期にかけてここ蓼科には多くの文化人が集い、その集いのなかから幾多の文学作品が生まれている。
太宰治(1909−1948)の新婚旅行で、
「・・・太宰をさそっても、蛇がこわいといって、着いたきり宿に籠もって酒、酒である。これでは蓼科に来た甲斐がない・・・」『回想の太宰治』(津島美知子)の文章を読みながら、われわれの新婚旅行の地もこの蓼科であったことを想起し蛇がいない10月だったことを懐かしむ。また、100歳に近い瀬戸内寂聴(1922〜)が
「親湯入口というバス停から、ヴイーナスラインを外れて一本道を下りゆくと、道の左下方に川が流れ、川の向こう岸にお城のように聳えているのがホテル親湯であった。」『ここ過ぎて』とある蓼科親湯温泉の外観があり、
「秋風のいづれはあれど露霜に痩せし野菊の花をあはれむ」『野菊の歌』とここ蓼科を愛した代表的な歌人の純情を思う。
「富士見高原ミュージアム」で富士を遠望、ミュージアムの中をじっくり見学した。竹久夢二もここの療養所で亡くなったことがわかった。多くの文人墨客が療養したり滞在したりしたようである。見所があり過ぎて図録を買った。
そこから清里に向かい、長い列に並び、清泉寮本館レストランで昼食。サラダ、メイン🍴とりわけデザートの「黒ブドウのジュレにジャージー牛乳のアイスのせ」はまことに美味であった。ジャージー牛乳もくせがなくおいしく頂いた。
そこから鉄道の最高地点であるJR「野辺山駅」(1375メートル)、野辺山天文台などを見学。「小渕沢駅」に5時に着く孫を迎えに行く。そして、信州の季節料理で有名な「喜多山」ですき焼きのコース料理で息子・娘の長男の誕生祝いをする。二日目もなかなか身の濃い1日であった
蕎麦畑過ぎて思いしそばの花信州のこと茜雲下


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