春を思わせる陽気になっている。二日続いた雨で家に閉じ篭っていたのが気にかかり、午前と午後同じコースを歩く。このコースは戦後6・3制で生まれた新制中学への通学路である。焼跡に遺された鉄筋三階建の校舎の屋上からは、北東に大阪城、西方にちぬの海と呼ばれた大阪湾が望見出来た。南側にある市立天王寺動物園の西側には新世界と境を接する今も変わっていないコンクリートの直線の一本道があり100メートル走のタイムの測定には絶好の距離が設けられたものだ。また、道路の中間点を東に市立美術館があり其処に上る階段に新中学一年生の全員が記念写真を撮った記憶があるのだが、焼野原が一望でき、仁徳天皇がこの地から少し北にある高津の宮から国見したとき、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除。その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったという記紀の逸話に見られるように仁徳天皇の治世は仁政として知られると校長が得々と述べたのに呼応したのか、教頭までが、ここ茶臼山の地は、大坂の陣のとき徳川家康が陣を敷き豊臣家を滅ぼして天下を平定したことまでしゃべり出した。
円本でこのとき真田幸村に追詰められ家康が戦死。影武者が家康に成りすまして江戸に幕府を開いたという説もあるらしいと手を挙げようとしたが、おこがましいので止めた。また、運動場がなかった学校だが2000メートルの長距離走では、新聞配達をする生徒が5名いて学校を取り巻く道路を5周するのに彼らが圧勝したことが印象深い。高速道路の下は川で、ここは名呉橋、ここは増井橋、ここは玉水橋が架かっていた、そんなことを同道の妻に訊いてもらいながら70年前の道筋を歩いている。街の変貌は当然のことではあるが、足腰の衰えはそれ以上に輪がかかっていることを知り寂しさを覚えたところである。
さまざまな人の出遭いを思いたるかの少年と歩きいし道


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