亡母13回忌の年忌法要を済ませて、今、天王寺区の生玉寺町にある菩提寺から帰宅して、ひと息ついたところである。有縁(うえん)のともがらが帰ってしまったあと、しずかに亡母を偲んでいる。明治42年(1909)生まれであるから、生きていれば100歳をこえている母ではある。斎藤史の『渉りかゆかむ』のなかに次の短歌3首がある。
・老(おい)不気味 わがははそはが人間(ひと)以下のえたいのしれぬものとなりゆく
・何ぞこの冬のさむさよわけ理解(わかち)ぬ老母とわが界とすでにことなる
・夜も昼も区別のつかぬ母と棲み身のうらおもて失ひにける
歌人安永蕗子は『新・短歌入門』のなかでこの3首の短歌を「美しくやさしく誰よりも貞淑であった人も老耄がすすみ、失明に近い人の、往時が想像出来ぬほど衰えてしまった母と共にある子の嘆きが、率直であるために一層の哀感となっている。しかし、表現者としての本性は三首目のしたたかな自己表出となってゆく。夜も昼も区別のつかぬ母と共にある時、作者は自分もまた自分自身の裏と表がはっきりしなくなったという、「うらおもて失ひにける」という卓拔な表現と」評している。わが母もそうであった如く、近い身内にも現に、同じ状態の老人を抱えて、日々自己犠牲を強いられていることをみていて、同感の思いが募る。
2・26事件の折、叛乱将校の精神的支柱の一人とされた斎藤瀏陸軍少将の妻であり、その娘が斎藤史であることは有名である。人間は誰でも若い時と同じく、老いてもなお、優雅に、矍鑠(かくしゃく)とした人生をいつまでも送りたいものだと望むことなのだが、体の機能はそれについて来ないのである。誰でも老残を曝したくないのだが、曝さざるをえない現実に遭遇すれば、辛く、哀しくとも受け入れねばならない。わが母もまた然りであったことが蘇ってくる。13回忌の法要を済ませた空漠感のなかに寂しさを噛締めている。
母が生まれた明治42年で最も大きな事件は、伊藤博文(1841−1909)がハルピン駅頭で10月26日に韓国人、安重根に暗殺されたことである。狙撃後,、安重根は ロシア語で
「 コレア ウラー! (Корея! Ура!)「韓国万歳」と叫んだといわれる。その後の日韓の歴史を考えると、大きな意味をもつ出来事であった。
また同じ年、北原白秋(1885−1942)は、詩集『邪宗門』を発表して、従来わが国にはなかった、近代的な感覚に盛り込めた美意識を表現して、話題になった。その開巻の言葉をみても意気込みを読みとることが出来る。すなわち、
邪宗門父上に献ぐ
「父上、父上ははじめ望み給はざりしかども、児は遂にその生れたるところにあこがれて、わかき日をかくは歌ひつづけ候ひぬ。もはやもはや咎め給はざるべし。」
邪宗門扉銘
ここ過ぎて曲節(メロデア)の悩みのむれに、
ここ過ぎて官能の愉楽のそのに、
ここ過ぎて神経のにがき魔睡に。
北原白秋は100年前にすでに、この詩的感受性を発露していたのである。
しかし、このあと、日本帝国主義は、暴走し続け、太平洋戦争敗戦により、鉄鎚(てっつい)を下される。何も知らずに生まれた私は、すでに、古稀(こき)の齢(よわい)をいつの間にか、過ぎ去っている。
―今日のわが愛誦短歌
・ひた走るわが道暗ししんしんと
堪(こら)えかねたるわが道くらし 斎藤茂吉
―今日のわが駄句
・行く秋や平等覚に帰命せよ

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